2010年12月3日金曜日

「いつも心に音楽が流れていた」

著者:柳田邦男
平成22年12月1日(水)

by Eiji.k

◇ 作者にとって、クラッシック音楽を聞くことは、少年時代の心模様(ひたすら美しいもの、精神的なものを求める)に蘇ることになるといっている。60歳を過ぎた現代においても少年時代に聞いたクラッシック音楽等を聞くと同じような心情(生きるエネルギーをその発祥の源からくみ取りなおす心の作業)になれるということは素晴らしいことであると思う。

◇ 当方では、少年時代に聞いた音楽(ポップス等)を聞く機会があっても、懐かしさは感じるが、少年時代の心境に戻ることができないのは感性の資質の問題なのだろう。

◇ “幼少期や青春時代に美しいものにひたる経験は生涯の生き方を左右するほど大事なこと”と作者のいうことは理解できる。当方にとってその経験は自然の中で遊んだことではないかと思う。今(中高年)になって、山登りや里山作業等することはそのことが影響していると思われる。

◇ なかなかできそうにないことややれそうにないことがあるとき「できたらいいな」「なれたらいいな」と思うことにより、自分に対して素直見なれるし、他者に対して謙虚になれるという作者の指摘は感銘する。

◇ 作者は、現在の子ども環境を心配し、“育児・教育で一番大事なことは、考える力、自分で生きる力、他者の痛みを思いやる感性、文脈を理解する力を身につけさせること”といっており、それらの力を身につけさせるためには、バーチャルメディア(ゲーム、ビデオ、パソコン、ケータイ)から身を守ることが必要であるといっている。そのための提案として、
・親による絵本の読み聞かせ ・あらゆる市町村に絵本館を作る
・学校での朝の読書の全校化 ・学校図書館の充実と司書教諭の配置
・1週間のノーテレビ、ノーゲームデ―の実施(3か月に1回)
・育児講習への男性の参加 ・教育おやじフォーラムの開催

2010年11月4日木曜日

「光媒の花」

著者:道尾秀介)

平成22年11月3日(水)

by Eiji.K

いかにも小説らしい小説、これぞ小説の世界であるという印象であり、本を読む楽しさを感じさせる作品である。
山本周五郎賞受賞作品であり、今年度直木賞候補となった。
6篇の短編で構成されているが、連作となっており、その関連に作者の力量を感じる。

「隠れ鬼」
■ 認知症の母親とひっそり暮らす男性の封印された過去
○ 高校3年生が別荘地で父親の愛人を殺してしまい、それを知った父親が自殺するという哀しい内容である。
○ このような殺人者のその後の人生について、“しかし本当の私は、他人の人生を壊し、自分の人生を壊し、老いはじめた身体で途方に暮れている一人の殺人者なのだ。” と言わせているが、殺人等の罪を犯した者は、たまたま法的に罰せられずにいても、まっとうな陽のあたる人生を過ごすことはできないのではないかと思う。

「虫送り」
■ ホームレス殺害に手を染めた小学生兄妹が抱く畏れ
○ 性的にいたずらされた復讐としてコンクリート片を落とすという幼い行為であるが、なにかやりきれなさの残る内容である。
○ 浮浪者の大人が幼い子供達に対し、子供達が人を殺したと思わせる言動は、後になって殺していなかったことがわかるが、子供のころから殺人という罪の意識を持たせることは、上記の大人のような人生になってしまうことになるため、非常に残酷な行為であり、人として許せないことである。

「冬の蝶」
■ 密かに心を通わせた少女のために少年がついた嘘
○ この短編で浮浪者を殺したのは幼い子供達ではないことがわかるが、そのことを誰にも告げていなく、問題解決にはならないことが、心残りと思ったが、
連作の最後にキチンと整理している。
○ 経済的な貧困や厳しい生活環境の中でどうしようもない現実に流されている幼い中学生(サチ)の状況をよく現わしている。そのような中での純情が痛ましく、胸を打つ。
○ この男子中学生が浮浪者を殺す浮浪者となるが、暗い人生は継続する。

「春の蝶」
■ 両親の諍い機に、耳が聞こえなくなった少女の葛藤
○ 中学生で人を刺したサキのその後の人生が気になっていたが、真面目な社会人となっていることが分かり安心する。
○ 幼い少女(由希)が嘘を続けなければならない哀しさ・優しさと娘の教育のために嘘をついた親(牧川老人)の話であるが、老人の“娘の顔つきがやわらいできているような気がしていた。”とあり、今後の明るさを感じさせるところに救いがある。

「風媒花」
■ 病に伏せる姉を見舞う配送ドライバー青年の誤解
○ 母と弟の仲たがいを解消するために仕組んだ姉の細工(カタツムリの涙)は成功した。姉は花の咲かない風媒花ではなく、虫媒花であった。
○ 心温まる結末に安心する。

「遠い光」
■ 自信を失った女性教師と孤独と戯れる教え子の希望
○ 「虫送り」の小学校の男子生徒がでてきて、河原のおじさんが警察に自首し、“僕も妹も本当のことを知って、ほっとしたけど、でも哀しかった“と言わしている。最後に正しい「落ち」を示していることが分かる。
○ 最初の「隠れ鬼」に出てくる判子屋が出てきて、判子屋の母親を娘だと誤解している「朝代」に対し、“きみも……ありがと”と涙ぐむ判子屋の情景がいい。
○ “光ったり翳ったりしながら動いている世界”の中で“現実はもっと明るく光っていることを忘れてしまう。”ということを作者は言いたいのだろうと思うが、少し、技巧が入りすぎている描写ではある。

以上

2010年10月6日水曜日

「凍」  沢木耕太郎

by Eiji.K

◇ 本を読んでいながら話の展開により場面によっては、「手に汗握る」という経験をしたが、今までにこのようなことは余りなかったことである。

◇ 本来小説とは、このように一気に読ませるものであると思うが、最近のものではそのような小説は少なくなっている。この小説は、特異な、奇異な題材であり、非日常的な世界を知ることができたことと、ノンフィクションとしての作者の力量が感じられる点で非常に面白かった。

◇ 解説の最後に山野井夫妻がグリーンランドで岸壁に挑戦し、登頂に成功する話が出ているが、このドキュメントをNHKで放映している。その映像を2回見ているので山野井夫妻の二人の表情、話し方がよく分かる。そのため、この小説での二人の会話や行動が目に浮かぶことができ身近な存在として臨場感がもてた。

◇ アルパイン・スタイルによる登山は、死の危険と隣り合わせのやり方であり、そのような極限状態での行動が我々の安全・安穏な日常生活と対比し、
感動を呼ぶし、なにか鼓舞されるものがある。

◇ 当方は、中高年の登山を始めて10年近くになるが、少ない登山経験から言えるのは、冬山は全く別世界の登山であり、経験を積まないと手に負えない領域である。気温がマイナスになると、全ての行動がほとんどできなくなる経験をしている。したがって、マイナス30度近くの岸壁テラスで夜を過ごすことなど考えられない。また、標高差1000m程度の山を登るだけで精一杯なのに登山道ではない岸壁をよじ登ることなどは若い頃からの実績がないと無理である。さらに、空気が三分の一の世界も全く想像ができない。

◇ 多少の危険がある岩場を経験すると、その達成感から、もっと危険な場所を目指してみたいという誘惑に襲われるが、現状では中高年の節度が優先し、危険は回避している。しかし、プロの登山家の宿命としてより困難な挑戦をしたいという感覚はそれなりによくわかる。

2010年9月1日水曜日

「知性の磨きかた」

著者 林望

平成22年9月1日(水)
by EK

[学問の愉しみ]
◇ 作者も言っているが、知性を論じること自体がその人の独断と偏見によるものとなる。それだけ知性とは簡単に解明し、提示することが難しい代物であると思う。
この本は作者の個性に基づくエッセイであり、共鳴できるところもあるが、反発・疑問に感じるところも多々ある。

◇ 「一芸を身につける。」ことがその他のことについても応用が利くようになる。→との指摘は実感できる。

◇ 学問は「知識」を得ることではなく、「方法」(研究史・注釈)を身につけることである。→との指摘は理解できるが、それができるのは頭が柔軟な若い時だけとの指摘は不遜である。(専門学者になるためならばよいが。)

◇ “若い時代というのは、何よりも自由な時間に富んでいるってことです。それが若いということの最大の意味です。”“若いときに仕込みをしなかった人は、そこで圧倒的に若い頃の「ツケ」を支払わされる。”→偏見である。
(“絶対的年齢ではなくてと”いっているが。)

◇ 学者や研究者は知性を身につけられる環境や機会があるが、官や会社の人は一般的にその組織の一歯車として経緯し、突然定年を迎えて呆然とする。等の表現は官や会社に対する一面的な見方である。むしろ、学者や研究者の狭い世界の問題点を考えるべきではないか。

[読書の幸福]
◇ 耳で聞く本の楽しみ→今度実践してみたいと思う。

◇ 本はすすんで汚すべし→蛍光ペンで線を引くことが本を読む充実感・満足感の印になっている。

[遊びは創造]
◇ 遊びの強迫感(連休や夏休みはどこかに行かなくちゃ)はある。→家に閉じこもり何もしないことは苦痛であり、作者のようなことはできない。

◇ “評価されなければ何にもならない”→学者的発想である。ボランティア等の無償の行為をどう捉えているのか。


by TI

納得する部分と、いやちょっと違うだろうと思う部分がある。物事を継続できる才能がある人たちばかりではないので、反発も出るのではないか。
要約すると、下記が言いたいのか?  
(「学問の愉しみ」「読書の幸福」「遊びは創造」の章立てがタイトルに合っていないように思える。)
“知性を磨くとは、自分を確立し、方法論を学び、評価されるまで愚直に努力することである。”

・「知性」というものは、基本的に「方法」の有無に係っている。端的にいってしまえばそれは、ものの見方なんです。ものの見方
→ゼミの教授(会計学)からも同様のことを教えられ、社会に出て納得した部分である。

・知識は個別的なもの、方法は普遍的なもの。
・大学は方法を身につけさせる教育を行い、カルチャーセンターは知識を伝授する。
→受講だけで止まれば高尚な遊び、生かすことができれば教育になる。

・いい先生につくことが重要である。大学ではよい研究者はよい教育者である。
→実感できなかったが、重要と思う。探す努力をしなかった結果か。

・大学における学生の教員評価などアメリカ的なやり方の危険性
→企業における社員評価にも、アメリカ流の悪い面がでている。相手に媚びるようになる。

・福沢諭吉の「私の独立」 出世の方便に堕した学問 を非難。
→しかし、今でも続く「有名企業に入るために、有名大学に行く。」

・本居宣長「年月長く倦まずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要」
→要領よくなんて考える前に、寝る間を惜しんでやれ。但し、強い動機が必要

・読書は何のためにするのか? 
→「その人にとっての意味」があればよい。(自分に役に立つ、楽しい)

・名著とは流行である。
→流行しているから読まなくては! 

・団体旅行には、金をもらっても行かない。
→目的(安さ、気楽さ)のために妥協するのは、非難すべきことか?

・書評というのは、基本的に「この本読んでくださいね」というものでなきゃいけない。
→何を読むかの参考にしたくて書評を頼りにするのだから、その通りと納得。

・時間を有意義に過ごすとは、目的を持って生きることなんだ。
→目的を持つことの難しさがある。(会社員であってもできること)

・選択の自由があることが重要
→選択肢がありすぎることの、居心地の悪さ。ブランド品、セレクトショップ

・評価されなければ何にもならない。
→結果主義にならないか。プロセスが大事ではないか。

・諦めず、倦まず弛まず、いつも前を向いて、最善をつくして努力さえしていれば、やがて天がそれを認めてくれるだろう。

→そう信じることで、前に進めるのだと思う。

以上

2010年7月7日水曜日

「麗しき花実」  乙川優三郎


by Eiji.K

○ 江戸時代の美術工芸に携わる実在の芸術家の世界、および絵画・蒔絵の職
人の世界を知ることができたが、個人的には両世界とも最も疎い世界なので感情移入がしにくかった。

○ ストーリーの展開が余りなく、読了するのに時間がかかった。どちらかと
いうと読みにくい内容であった。

○ 本の初めにある写真により、蒔絵の世界(櫛・棗等)の一端を知ることが
でき適切な配慮である。

○ 芸術家・職人の制作する作品に対する機微の感情・考え方のとらえ方が精
緻であり、この作者の力量は素晴らしい。

○ 江戸時代の文京区(根岸・不忍池界隈等)の自然状態の描写、風物(料理
屋等)の表現も優れている。

○ 主人公「理野」の女性としての感情表現の細やかさと芸術創作に対する真
摯な態度には圧倒される。

○ 「胡蝶」の生き方のように「理野」も最終的に男にたよることをせず、職
人として全うできるのか、専門職業を持つ女性にとって、自らの力で自立
することは永遠の課題である。

○ 小説の最後に「胡蝶」が「原羊遊斎」から自立し、三味線で生きていくこ
と、「理野」も故郷に帰り蒔絵職人として旅立つことになり救われる感じ。

○ 落款の現実を知ると(本人ではなく、弟子の制作が多いこと。)現代でも同
様なことが行われているのだろうか。

○ “いつの時代も技芸に関わるものは伝統と創造の間でもがきながら自分を 
見つけていくしかない。“

○ “女は老いても若さの燃えさしを抱き続けるようです。”

2010年6月3日木曜日

「人は愛するに足り、真心は信じるに足る。」 中村哲 ・澤地久枝


by Eiji.K

○ タリバンのテロ行為(自爆テロ等)は、イスラム教の過激思想(殉職することは天国へ行くことである等)による洗脳の結果であると報道されているが、実態は、家族・肉親を空爆等で殺されたその復讐手段であることがわかった。

○ アフガンの庶民感覚は、家族が仲良く、自分の故郷で暮らせること、一緒に居れること、三度のご飯に事欠かないことでありそれ以上の望みを持つ人はまれである。
→このような素朴な民族を爆撃しても問題の解決にはならない。むしろ逆行為であり、復讐心を増すだけである。
→ベトナムでの北爆と同様である。歴史の教訓が生かされていない。

○ 9.11による米英のアフガンへの復讐爆撃は、キリスト教世界の十字軍発想であり、問題解決にはならないことがわかる。
→これに無条件で加担してきた小泉内閣の軍事側面支援姿勢は同罪といえる。
→世界平和のために殺りく行為をすることは許されることではない。

○ アルカイーダは都市のエリート集団であり、タリバンは土着庶民のイスラム教徒集団であり、同一ではない。
→タリバン=アルカイーダであると報道されている。

○ 海外援助は、学校や病院を建てることよりも、その住民が生活できることを考えるべき。
→アフガンでは水(農業での自活)を与えることが最も重要であることがわかる。
その国・地域の実情を把握するにはその実態を知ることが必要であり、そこに長年生活していないとわからないことである。

○ 中村医師の業績は偉大であり、ペシャワール会運営を個人のみ(寄付金集め、水路建設、医療活動等)で実施しなければならない状況(危険な仕事であり、長年の積み重ねがないと機能しないこと)は理解できるが、中村医師の引き継ぎがなされていないことは欠点であり、大きな課題である。



以上

2010年4月28日水曜日

新・陰翳礼賛

新・陰翳礼讃(作者:石井幹子)
平成22年4月7日(水)
by EK

<作者の作品集>
○善光寺五色のライトアップ、○横浜三渓園のあかり夢幻能、○白川郷の月あかり
○赤坂のスペースカプセル、○萩市民館、○大阪万博、○沖縄海洋博
○サウジアラビア迎賓館、○ライトアップキャラバン(全国)
○横浜ライトアップフェスティバル、○東京駅レンガ駅舎、○ベイブリッジ、○東京タワー
○宮城県立こども病院、○函館夜景整備計画、○レインボーブリッジ、○明石海峡大橋
○善通寺市、○浅草寺、○筑波科学技術博、○花と緑の博覧会、○愛・地球博
○倉敷美観地区、○横浜グランモール広場、○世界淡水魚園

<作者の立場>
■ 西洋文化=二極化文化(白:黒、光:闇、神:悪魔)
■ 日本文化=陰翳の美(理想の光は満月の夜)
◎ 「光」と「闇」の中間領域=「あかり」の追求
◎ 「ほのあかり」の必要…物も人も美しく見える。(消費するエネルギーも少なくてすむ。)

<暮らしの中の明かりの考え方>
■ 北欧………全体にほの暗い 蛍光灯を裸で付けているところは皆無
■ アメリカ…日本のような肩書文化(名刺等)はないので、住み手の財力や教養を具体的に示すには、素敵なインテリアや照明のある美しい家に住むことが不可欠
○ 住まいの中の快適な明るさ⇒50ルックスあれば充分
○ 午前…高照度、午後…中照度、夜…低照度が自然のリズム=人間にとって快適
◎ 人類は何万年も昼は昼らしく、夜は夜らしく過ごしてきた。夜は暗みに順応することを欲している。

<部屋単位の照明の決め方>
○ 寛ぎの居間・寝室…暗め 間接照明使用(スタンドランプ等)
○ 機能優先の台所…明るく
○ 食卓…直接光が当たるようにする(食べ物が引き立つ)
○ トイレ・浴室…調光装置を付ける
○ 蛍光灯…白色・クール色→電球色に統一する
◎ 天井や壁に固定する照明器具は数を少なくし、スタンドの明りを楽しむ。
季節や来客に合わせて照明を変えることは、生活の中に気持ちのよい変化を付けることになる。(小型のスタンドランプを揃えておく。)
<オフィス照明>
○ タスク(仕事をするための照明…人の嗜好や内容に合わせて調整する)&アンビエント(室内の雰囲気を作る照明)照明が世界のすう勢
○ 日本は隈なく照らす蛍光灯の一律照明

<レストラン照明>
○ テーブルはステージ照明であるが、ずれているところが多い。

<スポーツ照明>
○ 選手が舞台でプレーする劇場照明が必要。

<その他>
○ 戦後の蛍光灯の発売以降、現代は明暗の濃淡がない明るさになっている。

<参考>
○ 乾正雄著(建築家、東京工業大学名誉教授)「夜は暗くていけないか」
○ 照明は蛍光灯の均一光ではなく、不均一にすることがよい。(天井に光を置くのではなく、壁に光を置く)


<参考>                      

・東上線の電車内(曇り):390Lux
・池袋デパート食料品売り場:800Lux
・コンビニ:1020Lux