2017年12月6日水曜日

「猫と庄造と二人のをんな 」 谷崎潤一郎

2017/12/6
By Takako.Y

・この物語は、少し賢い一匹の西洋種の猫をめぐって愚かな人間たちが繰り広げる喜劇と
いえるだろう。

・解説で磯田光一が指摘しているように、題名の配列頓序が示すのは、猫がおんなよりも
重要な位置にあるということ。 しかも猫は漢字、おんなはひらがな。庄造にとっては女の方が猫よりも軽いということだろう。

・思惑があって猫をもらうということになるが、晶子はそんなことよりも自分の将来をも
っとよく考えて、ぐうたらで情けない元夫にさっさと見切りをつけて別の男を探した方が
いいに決まっている。
・しかし、そうしないことによってこの物語が始まる。冒頭部の品子から福子への手紙は
とてもおもしろく、つい物語にひきこまれてしまう。

・庄造の猫の愛し方は異常だ。ことに二杯酢の小鯵を猫に与えるところの描写はすばらし
く、その光景を彷彿とさせる。また猫に対する人間たちの心の勤きもよく描かれている。
・福子のわがままで奔放な性格では結婚生活が長続きしないと品子が考えるのも無理はな
い。福子はあきれるほど愚かな女として描かれている。
・福子の財産が目当てで嫁にした母親も愚かだ。この母にしてこの息子ありか。

・登場する人間たちは愚かなところが多く、むしろ猫の方がしたたかに生きているのは滑
稽だ。

2017年11月1日水曜日

「料理通異聞」  松井今朝子

2017年11月1日

by Etsuko.S
☆あらすじ
浅草新鳥越町にある精進料理屋福田屋の跡取り息子善四郎は、元服後、御金御用商水野家に二年の間、奉公に出された。そこで見聞きしたこと、教わったこと、出会った人々が、後の人生に面白く関わってくる。
出生に秘密のある善四郎は、料理屋の方に興味があり、福田屋に戻ってからもさまざまに料理の工夫をしてきた。そうして大きくなった福田屋は店の名を八百善とし、文人墨客が集うサロンの様子を呈し、江戸一の料理屋と認められるようになる。
当時、さまざまな料理本が出版されていたが、いわゆるプロの料理人が手がけた料理本はなく、善四郎が書いた「江戸流行料理通」は、八百善における四季折々の献立とレシピ、著名な江戸文化人が序文や挿絵を寄せた料理本で、たちまち江戸市中の評判となった。

☆感想
三百年続く日本料理の料亭「八百善」の創始者ともいえる四代目善四郎の生涯を描いた作品。青年期より、いろんなことに興味を示し追及していく性格や、おせっかいとも思われる世話焼き、これらの性分が単なる料理屋の主人というだけにとどまらず、各方面の人物とも交流が生まれる要素になったようだ。
彼が書いた「江戸流行料理通」や他にもいろいろと残された文献によって、当時の料理や饗応の献立がわかり、興味深い。その時代、精進料理専門の店があったというのも面白く、雁の肉に似せたというがんもどきなどだけではなく、お刺身もお魚以外のもので作っていたとは知らなかった。
作者はあとがきで、「料理は人間が想像力を駆使して生み出すアートの一種であり、人類史上最大最良の発明といえる」と述べているが、古来、日本人は素材を単一の食品として食するのみではなく、さまざまに工夫して幾種類もの料理法を生み出したことにより、味・種類とも日本料理は世界一といわれるようになったのではないだろうか。
また、十八世紀後半の文化文政の時代には多くの文化人(四方赤良=酒井抱一、大田蜀山人、亀田鵬斎、蔦屋重三郎、山東京伝、渡辺崋山、等々)が現れ、八百善はそうした人々の会食の場、つまりサロンとしての役目も果たしていたようだ。いつの世も、会食や芸術は交流の手立てとなっている。
史実に基づいた時代小説は、歴史の背景、当時の地理や日常会話など、時代考証をきちんと調べなくてはならない大変に面倒な作業だと思われるが、酒井雅楽頭舎弟、後の酒井抱一や太田蜀山人らとの出会いの場面など、善四郎およびそれらの人々の性格を踏まえて描けていて、後年の描写にも一貫したものがあり、人間の面白みが伝わる。

鎌倉明王院の中にあるという八百善では、十代目の指導により当時の料理を作って戴くコースがあるという。器も当時の物を使っているとか。大変興味をそそられる。

            
by Eiji.K
◇ 料理屋、食堂、水商売というような業界については全く知り合いがおらず、どのような世界であるのか知りたいと思っていたところなので興味深く読むことができた。

◇ 特に和食は食材の新鮮さが命であるといわれており、冷蔵庫のない江戸時代ではどのように保存し、また、ほかの料理に適用するのかが知りたかったが、そのようなことが書かれていなかったのが不満である。

◇ いかに良い材料を市場から仕入れても客が来なければ料理できないので、その辺の塩梅をどうするかは現代でも同じ課題であるが、よくわからなかった。

◇ 善四郎と冨吉との関係で「心の底に冷やっこいもんを抱えた男はすぐにわかりますのさ。それに気づくと女は男をほおっておけなくなるんですよ」というくだりがあるが、「男の冷やっこさ」とはどういうものなのか不明である。

◇ 絵画や歌などは後世にも残ることができるが、料理は口に入れば消えてしまうものである。そのようなはかなさを日本人は好むものであり、桜の散り際、花火と同じく日本料理が見直されている理由だろう。

◇ 江戸一の料理屋となったことについて太田南畝は、「お節介、結構。若いうちは他人のお節介が面倒な気もするが、年を取ればやはり人の親切が身に沁みるもんだ。」「見返りを求めぬ人の親切は尊い。」とあるが、今でいう相手のことを思った「おもてなし」の心が日本人の美徳として称賛されてきた結果なのだろうと思う。

◇ あとがきに「料理は人間が想像力を駆使して生みだす紛れもないアートの一種であり、人類史上最大最良の発明といえるのではないでしょうか。」とあるが、少し言い過ぎではないかと個人的には思う。

◇ 八百善は現代まで継続しており、鎌倉で10代目の善四郎が鎌倉十二所にある五大堂明王院境内にて、ほぼ10年ぶりに料理屋としての店舗を出している、とのことなので江戸料理とはどのようなものなのか高そうだが行ってみたい気がする。(昼ランチ3000円、要予約)

以上

2017年10月4日水曜日

「望郷」   湊かなえ

平成29年10月4日(水)
by Eiji.K

〇 みかんの花
 ・姉が島から出て行って一度も戻らない理由が、母親の殺人を姉が隠ぺいするためであったということが最後に分かるという衝撃的な内容でプロットがよくできている。

〇 海の星
 ・人生における「真実」を相手に伝えることができず、墓場まで持っていくことというのは現実的にはよくあることなのだろうが、当方にはとても我慢できずストレスになってしまうと思う。

〇 夢の国
 ・デズニーランドはいつでも行けるところであり、どちらかというと子ども用遊園地で待ち時間があることがネックとなっている場所である。
 ・地方の人は夢の国と思っているのだろうかと思うが感覚に違いを感じる。

〇 雲の糸
 ・母親が息子のために自殺するかもしれないので息子本人が自殺未遂するというプロットに無理がある。
 ・姉はしっかりとした考え方の持ち主なのでこの家族の安寧が期待できる。

〇 石の十字架
 ・小学校の時に親友となった相手(めぐみ)と再度、子供を連れて同じ島に引っ越してきたのに全く会話をしていないとのことがよく理解できない。

〇 光の航路
 ・死んだ父親が教師としていじめにあっている生徒を助けていた事実を知り、同じ教師となっている自分が、いじめ等から逃げていることを悟り、頑張ろうとしている話で共感できる。
 ・現代の教育現場でいじめは大きな問題となっているが、自分たちの時代にはいじめは経験していないのでその原因がよくわからない。
 ・この小説では喫煙をチクられた3年生がクラスのリーダーにいじめをやらせる設定になっているが、そうゆう経過があってもクラスでいじめが始まるものなのか、理解しがたい感じである。
以上

2017年8月9日水曜日

「昭和二十年夏、子供たちが見た戦争」 梯久美子

平成29年8月9日(水)
by Eiji.K

◇ 現代の著名人10人が終戦時に子供であった頃の体験記であり読みやすかった。

◇ 終戦という世の中の価値観や生活形態、社会基盤等が180度変わる中で多感な思春期をどう生き抜いてきたかはその後のその人の人生に大きく影響してきたことはよくわかるが、ひるがえって自分の両親のことを考えると、両親は終戦時26歳であり、当然影響は大きくあったのだろうが、どうだったのかを聞く機会はなかったし、むしろ話したくなかったように思えるのはおそらく当時の日本人の共通思考であったのだろう。
  したがって、著名人の当時の生の声を引き出しているこの作者のインタビュー力量はすごいと思う。

◇ 当方は昭和22年生まれの戦後世代であるが、子供のころの祭りには傷痍軍人が必ずおり、当時のバラックの存在や闇市の独特の雰囲気や匂いを多少経験しているが、すぐに高度成長期に入り、それらの記憶は全くの過去のものとなっており、直接の影響はなかったといえる。

◇ 戦時中における一般市民や子ども達の記録をこのような読み物として後世に残していくことは意義あるものであると思う。

◇ 10人の内、印象に残ったこと。
 〇 児玉清
   疎開先でいじめに会い、その孤独と戦うために一人で演じることを習得し、その後の役者人生に結びついたこと。
 〇 館野泉
   クラシック界であまり馴染みのなかった北欧に行ったのは、戦後の「なにをやってもいいんだ」という空気が影響していたこと。
 〇 梁石日
梁石日の話が一番面白かった。「血と骨」の番外編である。終戦時の在日朝鮮人の逞しさと強靭さは、この作家の最も得意とするところであり、貴重な体験であったこと。
 〇 福原義春
   戦争で死ぬのは人間だけではない。文化もまた殺されることを実体験したこと。
 〇 山田洋次
   厳しさや惨さがむき出しになる闇屋の旅の中で笑うことがどんなに人を元気づけてくれるかを知り、寅さんの見本となる人に出会ったこと。
 〇 倉本聰
   岡山への疎開体験が、「北の国から」の廃屋改装のネタになっていたことを知ったこと。
 〇 五木寛之
   「青春の門」に出てくる炭鉱の荒くれ男たちのことは、朝鮮から福岡に引き上げた時代に経験していることであったこと。

2017年7月6日木曜日

「応仁の乱」  呉座 勇一

平成29年7月5日(水)
by Eiji.K

◇ 30万部を超えるベストセラーの本であるので期待して読んだが、この本は読み物というよりは学術書そのものである。作者は11年間に及ぶ乱世の結果を歴史の後追いとして見るのではなく、当時の目線で、たくさんの登場人物の考え方で、様々な状況変化にどのように判断して行動に移していったかを臨場感をもって描いたつもりであると言っている。(興福寺の経覚や尋尊の日記には彼らの当時の感想が書かれている。)

◇ この設定は、乱の当時の社会・経済・政治情勢、登場人物の生い立ち・性格、庶民・武士の日常生活、生活・慣習・慣行等の基礎知識がある学者・研究者達には受け入れられる方式であると思うが、基礎知識がない者にとっては、登場人物の相関関係(血縁・地縁等)、近畿地方の地名場所、合従離散頻度等が余りにも複雑であり、読者は本を読みこなすことに精一杯となり、歴史の面白さを感じる前に歴史を読みとる難しさの方を感じてしまう結果になっているのではないか。

◇ 作者の上記設定は理解できるので、歴史事実の積み重ねからのみ提起するのではなく、もう少し状況や歴史を俯瞰した立場で書いてもらえたら爆発的なベストセラーになるのではと個人的には思う。

◇ 登場人物の漢字名前にはルビをつける回数をもっと増やしてもらわないと、読書習慣として読めない名前の人物には感情移入がしにくい。

◇ 室町幕府の応仁の乱は、日本歴史の転換点といわれているが、幕府・将軍の権威が失墜し、京都中心の幕政参加の政治秩序が武士の自国支配の秩序へと移り、貴族や寺院の支配する荘園制度(農民=農奴)が農民=足軽の下剋上・群雄割拠の時代に入り、茶道・華道や京文化が地方に広がる契機となったことなどはこの乱の結果としての歴史功績であったのだろう。

◇ 今年の4月に奈良にツアー旅行した時にガイドが奈良市内にある奈良ホテルは皇族が宿泊するホテルであるとの説明があり、記憶していたが、この本に経覚が鬼薗山(きおんやま)に城郭を築き移住したあり、鬼薗山は現在の奈良ホテルの敷地にある兵陵であるとの記述があった。現在住んでいる埼玉県の比企郡という地名は戦国時代の豪族の名前であることは長年住んでいることにより知る機会があったが、この本に出てくる地名、古戦場名、人名等は京都や奈良に住んでいれば歴史の重みをもっと身近に感じられるのだろうと思う。

◇ 次の戦国時代になると著名な歴史上の人物がたくさん出てきて、現代でも小説の題材として、また、様々な教訓・逸話として日常と結びついているが、この本に出てくる人物や出来事が身近に感じられないのは勢力争いに明け暮れ、魅力的な時代を先取りする英傑がいないせいなのだろうか。

       (朝日新聞記事より)





2017年6月15日木曜日

「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」  東田直樹

平成29年6月10日(水)
by Eiji.K

◇ 自分の身近に自閉症の人がいないため、この本に書かれていることを実感することが難しかったが、「解説にかえて」を読みこの本の価値(自閉症を患者サイドから発信し、その世界を知らせたこと。)を知ることができた。

◇ 特に、海外でこの本が30言語で翻訳されており、世界的に注目されている内容であるということが分かり、本の持つ力の大きさを知ることができた。

◇ この本の影響をさらに感じたのは、朝日新聞の天声人語でこの本のことが書かれていたことである。天声人語に書名が出るほどの本であることを知った。
  「セサミストリートのジュリアは自閉症である。他の人とちょっとやり方が違うと友達に説明される。米国では68人に1人の割合で自閉症児がいるのを番組が受け止めて登場したキャラクターとか。一人ひとりの違いを認める社会であって欲しいとの作り手の思いが伝わる。東田直樹さんの言葉も紹介し、違いを言い募るのではなく、違いを理解する、そんな心構えでありたいと記している。(天声人語から抜粋)」

◇ 自閉症の症状についてはほとんど知らなかったが、個々の症状内容・その理由が記されており、家族や周りの人たちの大変さを知ることができた。
  ・会話ができないこと。・いつも同じことを聞いてくること。
  ・何度言ってもわからないこと。・言葉の使い方が普通の人と違うこと。
  ・言葉が言えても言いたいことと違うことがあること。・自分の体を自分のものだと自覚したことがないこと。・自分の気持ちを相手に伝えることが大変であること。
  以上のような症状について自分で理解し、分かっているが対応できないでいることを具体的に知ることができ、苦悩・苦痛を抱えていることが分かった。

◇ また、上記の症状を抱えながらも非常に繊細なナイーブな感情を持っていることも知ることができた。
以上

by T.I
発達障害が良く特集されていて、身近な問題となってきている。自分も軽度かもしれないが、発達障害かなと思うこともある。

自閉症は、発達障害の1つとされているもので、この本を読んでその障害が少し理解できた。

文章を書けるようになるまでの、手製の文字盤でコミュニケーション取れるようになるまでの、母親の思いの強さと根気に頭が下がります。

パソコンなど科学技術の進歩が、障害者を助けをする可能性を感じた。

体を思うように使えなくて、しゃべれない、理解できないなど、その苦しさが感じられ、結果として自閉症になるのかと感じた。

【本人の文章から】
「話せないということはどういうことなのかということを、自分に置き換えて考えて欲しいのです。」

「僕たちの記憶はジグソーパズルのような記憶なのです。」

「僕たちは原始の感覚を残したまま生まれた人間だからです。」

「僕たちだって成長したいのです。」

「それは自分の好きなことではなくて、できることなのです。」

「けれども、あきらめないで欲しいのです。僕たちと一緒に戦ってください。」






2017年4月5日水曜日

「沈黙」  遠藤周作

平成29年4月5日(水)
by Eiji.K

◇ 今までに宗教上の神というものについて考えたことがなかった。
私にとって、現代は“神は死んだ”(ニーチェ)という意識であり、無神論者であると自負しているので、この本に出てくる神の存在を信じ、危険を冒して布教するという伝道者の行為が理解の外にある。

◇ 神とか宗教とは何なのかという問題は、人類にとって根源的な問題であって、よくわからないが、絶対的なものを必要とする者が思考の中心に置いて、判断基準にしたいという概念をいうのではないかと思う。

◇ 今の時代の中で宗教が日常に出てくるのは葬儀の時である。死者を弔う儀式として、初七日・四十九日、三回忌等があるのはそうした儀式を実行することで哀しみを馴らしてくれている。それの意義を感じるから廃れないで継続しており、現在の宗教の存在意義となっていると思う。

◇ 以上のように言ってしまうと、この小説の感想が書けなくなるが、究極の選択を迫られた人がどのように対応・判断したのかということから考えれば、自分の思想信条を貫くよりもそれを曲げることによって他人を殺さない選択ができるならば、その選択の方が正しいといえるし、その過程を表現する作者の力量は十分感じる。

◇ 気になる表現
  井上筑前守:日本にキリスト教が根付かない理由として「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。」「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。」
  〇 日本人は偉人を神として祭ってきた歴史があるが、神が天地創造したという観念は少ない。(古事記にある〇〇命はあるが。)
 ・菅原道真…天満宮、天神   ・空海…真言宗 日蓮…日蓮宗
 ・秀吉…豊国神社       ・吉田松陰…松陰神社 東郷平八郎…東郷神社   

◇ この本に「ヴァリニャーノ」という歴史上の人物が出てくるが、先月読んだ辻邦生の本に『安土往還記』というのがあり、信長がたぐいまれな友情を覚えた人として書かれている。信長のような為政者が生き残っていれば日本でのキリスト教も様変わりしたのだろうと思われる。


by Etsuko.S

幼少期に洗礼を受け、熱心なクリスチャンだった作者の晩年の作品、「白い人、黄色い人」「深い河」の三部作のひとつである。
1587年に秀吉が禁教令をだしてから、キリスト教徒に対する厳しい迫害の事実があり、本著はその事実を、日本に宣教に来た実在の宣教師ロドリゴ(ジョゼッペ・キアラ)を主人公として小説にしている。
外国人である主人公が、日本語による述懐をするという設定を、違和感なく読みものにしているのは、作者の力量だと思う。内容の厳しさとは別に読みやすかった。
ただ、本書のテーマである「神の沈黙」を思う場面が何か所も出てくるたびに、私も戸惑う。キリスト教について、全く無知であるためか、下記のような疑問がわいた。

1、 日本人は何故キリスト教を受け入れたか?
2、 土着の神や仏教はその時どう扱われたか?
3、 異国の宣教師と異国の言葉に違和感はなかったのか?
4、 禁教令が出た時の反応は?信奉者全員が隠れ切支丹となったのか?
5、 本書のテーマである「神の沈黙」に疑念はおこらなかったのか?
6、 家族や仲間に対する迫害や拷問をどう見たか?
7、 殉教・殉死はどのように解釈するのか?
8、 ヨーロッパにも日本の禁教と迫害の様子は伝わっていたようだが、渡航の困難をおして、日本上陸し、宣教を試みる姿勢はキリスト教の教えによる「博愛」からか?
9、 棄教した主人公キアラ神父は80歳以上まで生存したが、その間の心理は?
10、 作家遠藤周作は、「神の沈黙」についてどう解釈したのだろうか?

 新潮文庫の佐伯彰一氏の解説によると、「神は果たして存在するのかという怖ろしい問いに答えがあたえられた訳ではなかった。しかし、ロドリゴの背教が、じつは神への裏切りではなく、キリストは棄教者の足で踏まれつつ、これを赦していたという信仰の畏るべき逆説」と書いています。そして「沈黙」はカトリック教徒のけわしい信仰の隘路をたどり、超カトリック、普遍的な宗教小説としています。

 「深い河」では少し理解できたのに、「沈黙」ではまたキリスト教徒が理解できなくなりました。                                 以上


2017年3月1日水曜日

「嵯峨野明月記」 辻邦生

平成29年3月1日(水)
by Eiji.K

◇ 文庫本としては字が小さく、空白や段落がないのでなかなか進まなく、読みにくいので読み終わるのに時間がかかった。

◇ しおりを落とした場合、どこまで読んだかが分からなくなり、読み始める場所を探すのに苦労した。

◇ 嵯峨本のような美術工芸品に疎い身としては、格調が高く、なじみのない世界なので入りにくかったが、芸術作品に携わる人たちの熱意や考え方に触れることができ、歴史の重みのようなものが感じられた。

◇ 日本の歴史の中で小説等で最も題材として扱われているのが戦国時代と幕末・明治維新であるが、その扱われ方は英雄などの歴史勝者の視点からのものが圧倒的に多い。この作品は、職人という庶民側の立場から歴史を見ており新鮮さがある。

◇ 信長の本能寺から関ケ原までの歴史はそれまでの日本人が経験したことのない激動期であったことを示唆している。関連して、第二次世界大戦の敗戦後の日本の高度成長期は後の歴史から見ると日本人の考え方、家・家族主義、地縁・血縁、自然とのつながり、風俗・習慣等を一変させた戦国時代の激動期と同じぐらいの変化であったと見られるのではないかと想像した。

◇ 万(ま)城目(きめ)学の「プリンセス・トヨトミ」という本で、大阪人はいまだに太閤を慕い、崇めているという内容が書かれていたが、辻邦生の本からも秀吉が実施した大茶会、花見、朝鮮征伐等の影響は大阪人や関西人に与えた感動が大きかったことを読み取ることができ、政治・経済・文化の中心は関西であったことを改めて感じる。

◇ 優れた作品を後世に残すという生への充実と自然に同化するという悟りのような境地に入れた本阿弥光悦、芸術作品を完成できた俵屋宗達、事業家として世のため人のために貢献できた角倉素庵、このような人たちがその後の文化・芸術分野における日本人の模範として受け継がれているのだろう。


               

2017年1月11日水曜日

「木を植えた人」  ジャン・ジオン

平成29年1月11日(水)
by Eiji.K

◇ 短編の寓話であるが、読後感が非常に爽やかで心地よい。

◇ 当方にとって何が心地よいのか考えてみると次の2点にあると思う。

◇ 趣味で山登りをしているが、山に行く理由はいろいろあるが、一言でいう  
  と自然の中にとっぷりと浸り、自然に同化する心地よさを感じることにあると思っている。ほとんどの山は樹木で覆われた森の中にあるので、自然=森であるともいえる。その森を作り出す話なので共感を感じる。

◇ もう1点は15年近く、つるがしま里山サポートクラブで「市民の森」の整備活動を継続しているが、整備方法は森を放置していると雑草が侵食し、森に入れなくなるので、現状を維持すべく草刈り・ゴミ拾いと伐採が中心なっている。
現状における鶴ヶ島市の樹林地や緑地はここ数十年で急速に宅地化・工場化されており、日本全体の里山減少の縮図のようになっている。
森を増やすという試みは明治神宮の森など一部の例あるが、日本全体ではほとんど実施されていないのが実態である。
したがって、本に出てくる森を作るという作業・行為には共感とともに夢や希望を感じさせられる。
  ⇒人の住まなくなった宅地や廃業した工場跡地等を森に作り替える流れがそろそろ日本で始まらないかと期待している。 

◇ 本に出てくるフランス・フロヴァンス地方と日本の風土はかなり異なっている。日本では荒地は何もしなくても数年間で森になっていく温帯地帯にある温暖湿潤気候であるが、ヨーロッパの荒地は自然のままではなにも変わらず、人為的な作業が必要となる気候である。
ヨーロッパで見られる延々と続くブドウ畑や牧草地は尽力の賜物である。日本は、森再生には恵まれている風土であることを喜ぶべきである。


以上