2016年12月10日土曜日

「収容所から来た遺書」  辺見じゅん

平成28127()

by Eiji.K

  私の「シベリア抑留」というイメージは、極寒の中、過酷な重労働により栄養失調や過労でバタバタ死んでいった捕虜達の悲惨な話ということであったが、その詳細な実態を読んでみると、実に様々な出来事や状況があったことを知ることができ、これも読書することの良さの一つである。

  この本にも出てくる瀬島龍三について書かれた山崎豊子の「不毛地帯」で瀬島龍三は功成り遂げた晩年、シベリア抑留の会報作成を最後の仕事として続けていたことが書かれていたが、体験者には忘れることができない重い経験であったのだろうと思う。

    権力による基本的人権の侵害事例としてシベリア抑留では民主運動による密告、理不尽な裁判、監獄生活が出てくるが、特に共産圏でこの流れは絶えることなく変わらず、歴史的に東欧諸国、特に有名なのは東ドイツでの秘密警察シュタージ、中国での文化大革命等があるが、いまだに北朝鮮等では現存することに憤りを感じる。

    中国では満州国時代に作られた建造物が現存しているが、シベリアでも捕虜たちが作らされたものが今でも残っているのではないかと思う。

    日本人は故国から離されて他国で望郷の念を思うということを建国以来経験していない(アメリカ移民、ブラジル移住等希望したものはあるが。)。強制連行されたシベリアは日本とは全くかけ離れた自然環境であり、9年間も過ごせばその思いは一層強くなるだろうが、日本は、そのような経験をしにくい海で囲まれた国であるとともに、現在のシリアのように国が内部分裂し、国の運営ができなくなるようなことを避ける知恵と知見と努力を先人たちが力を合わせて勝ち取ってきた歴史があり、国としての誇りであると思う。

    山本幡男の遺書をみんなで分担し、記憶して家族に伝えるという結束力、団結力を引き出したのは山本幡男の尊敬できる人格・能力の賜物であり、彼の逆境に強い意志の強さの結果なのだろう。


    解説で、吉岡忍は「人間の本質的な不思議さは、ひょっとしたら(山本幡男が持っていたような)この夢見る能力にあるのかもしれない。」と感じたといっているが、同感である。そうした能力を発揮できるためには、優れた状況判断力、鋭い洞察力、高い教養等の資質に裏打ちされたものなのだろうと思う。              以上

2016年11月2日水曜日

「無私の日本人」 磯田道史

平成28年11月2日(水)
by Eiji.K

◇ 穀田屋十三郎

 ・映画「殿、利息でござる!」の原作である。
 ・本の登場人物は映画になった俳優のイメージがあると身近に感じられる。
  穀田屋十三郎…阿部サダヲ 菅原屋…瑛太 甚内…妻夫木聡
 ・穀田屋は現在でも酒造メーカーとして宮城県黒川郡大和町に現存している。
  ・日本人の心を解明しようとした作家として著名なのは司馬遼太郎である。歴史上の人物を通して膨大な資料を読みこなし・駆使して追求した作家であるが、司馬遼以後、その作業を受け継いでいる作家は磯田道史ではないかと思っている。

<印象に残った文章>
 ■ 江戸時代は徒党というものが蛇のごとくに嫌われた。
   3人以上が密かに集まり、御政道について語れば、謀反同然の行為とみなされた。
   ⇒明治以降の日本の政党政治がみすぼらしいのはこれの影響があるのか。
 ■ 徳川時代の武士政権は、もともと軍隊であり、民政についてはほとんどを領民に任せている。
   有力農民を選んで庄屋(肝煎)に任命し、村単位での徴税と民政を請負わせた。 
 ■ 江戸時代の日本の人口 3000万人 庄屋数は50万人 百姓の50人に1人は庄屋である。
   庄屋=行政官・教師・文化人・報道機関であり、この国を下から支えていた。
 ■ 藩の役所はことなかれ主義で動いている。 事例行政は奈良・平安の律令官吏から始まり、鎌倉・室町幕府をへて江戸時代に引き継がれ本格化した。
⇒現代でも残る官僚主義は長い歴史の産物であるといえる。
 ■ 江戸期の庶民の「親切・やさしさ」はこの地球上のあらゆる文明が経験したことがないほどの美しさを見せた。倫理道徳において一般人がこれほどまでに端然としていた時代も珍しい。
   ⇒吉岡宿の上町の行動に対して、下町の庶民はじっとしていることができず自主的に町の有力者に声をかける行動に出た。
   ⇒日本の江戸期に作者の言う「親切・やさしさ」がどのように成立してきたのかその経緯が知りたいと思う。
 ■ 江戸人は庶民に至るまで「体面」というものの占める割合が著しく高かった。
   ⇒吉岡宿の下町の人がだれも金を出さないと上町の住民に対し体面がたたない。
 ■ 江戸社会は、その人の身分に応じた行動を取ることが約束事として成り立っている社会である。
   ⇒身分に応じた振り舞をせよとの戒め
   ⇒身分制がなくなった現代は、身分制の利点でもあった人の行動規範までなくなってしまっている。
 ■ 江戸時代の日本人の公共心は、世代をタテに貫く責任感で支えられていた。
   「そんなことをしたらご先祖様にあわせる顔がない。きちんとしなければ、子や孫に申し訳ない。」
⇒家の永続、子々孫々の繁栄こそ最高の価値と考える一種の宗教
■ 十三郎たちは、約束した金額を準備できなかった場合、切腹の覚悟をしていた。
⇒切腹は武士だけの潔さではなく、庶民も廉恥や、面目が立たない場合の対処方法として実行されていた行為である。このすさまじさはどこから出てくるのだろうか。
■ これだけの善行をしたにもかかわらず、十三郎たちは、遺言でそれらの行動を人に伝えるなと言っている
⇒日本人の奥ゆかしさであるが、現代においては廃れてしまったものではないかと思われる。


◇ 中根東里

 ・若い頃から中国語を学び、四書五経等の儒学を中国語で理解できる中根東里という天才を題材に取り上げるのは、司馬遼の取り組み方と共通しているが、その素材を通じて現代においても
共感し、蘇らす展開力・手法がイマイチである。(司馬遼の描いた戦国武将、坂本龍馬、河井継之助等の書き方)


太田垣蓮月

 ・司馬遼には女性を主人公にしたものはほとんどないが、この作家は書けそうである。
<印象に残った文章>
江戸人の手指へのこだわりはすさまじい。和服は体の線を隠し、手だけをのぞかせる。
⇒手指よりも襟元がポイントとなったのではないか。

あとがき

・自他と峻別し、他人と競争する社会経済では「経済成長」が価値観の中心となってくるが、「そこに、ほんとうに、人の幸せがあるのですか」と作者は問いている。
・本来、日本人が持っている“不幸になることは、隣よりも貧しくなることではない。”というきちんとした確信が失われることが怖い。
・落とした財布が戻ってくる国の方がGDPの競争よりも大切である。
・上記の3人物に共通するのは、“ほんとうに大きな人間というのは、世間的に偉くならずとも金を儲けずとも、ほんの少しでもいい、濁ったものを清らかなほうにかえる浄化の力を宿らせた人である。”
  ⇒浄化の力を宿らせた無私の日本人は現代でも存在することができるのだろうか。

以上

2016年9月14日水曜日

「大人の流儀」  伊集院静

2016年9月14日

by Tsutomu.I

2013年1月の日本経済新聞に掲載された 『心に響く「現代の名言」ランキング』1位になったのが、「人はそれぞれ事情をかかえ、平然と生きている」であり、この本を読もうとしたきっかけである。(p98)

“大人”と対比されるのが“女、子ども”  なぜだろうか?
理不尽なことを許容できない、大局的に考えられないから?・・・・・

大人とは → 他人や時代の流行に左右されない、他人を思いやることのできる人
女湯ののぞきにも、「せんない事情があると」言える人

町内、同じ地域、知り合いの店で買い物をすることは損得だけで選択してはいけないのではないか。共生ということは大切なものだと私は考える。(p72)
→ 安ければいいのか? 京都の伝統はどうやって守られてきたのかを考える。

1. すぐに役立つものはすぐに役に立たなくなる。
2. 金をすべての価値基準にするな。金で手に入るものなどたかが知れている。
3. 自分だけが良ければいいと考えるな。ガキの時はそれも許されるが、大人の男にとって、それは卑しいことだ。(p155)

ただ金を儲けるだけが目的なら企業とは呼べない。企業の素晴らしい点はそこで働く人々の人生も背負っていることだ。(p25)
→ 株主の権利ばかり主張する現在の金融資本主義に懐疑的で、今はその終焉の時代であり、IoTの普及で共生型経済が力を増していく時と思っている。

自分のことを棚に上げて、正義を振りかざす輩を嘘つきと呼ぶ。(p50)
→事情を知らず、先入観だけで判断しがちな自分を反省する。

“ゆとり教育”では子規は生まれなかった。(p55)
→ 幼い時の教育はどうあるのが良いのか、考えさせる。

喧嘩にはイデオロギーはない。民主主義も共産主義もない。性根だけである。それがわからないようでは喧嘩をする資格はない。(p69)
→ 中国の海洋進出を見ると大人の戦いの気がする。


by Eiji.K

◇ この作家のプロフィールをウィキペディアでみると実に多彩な才能であることが分かる。その個々の才能が一流であることがこの人の最大の魅力である。ディレクター、作家、作詞家等で名を成している。

男として羨ましいのは、美しい女優(夏目雅子、篠ひろ子)と結婚するほどもてる男であるということである。

このエッセイで書かれている内容は、人生訓として共感できるところはあるが、むしろ、人としての礼節・潔さ・達観のよさであり、男らしい魅力的な生き方に特に、女性は感じるのだろうと思われる。

当方がこの作家を知るきっかけはエッセイにも出てくるが、阿佐田哲也のエッセイにギャンブラー仲間としてばくち旅に同行する紀行文で知っていた。

この本で共感した点
大人が人を叱るときの心得
   ・叱ることの必要性→今の新しい人の大半は本気で叱られた経験を持たない→叱られることは辛い。→辛いものはよく効くのだ。
大人はなぜ酒を飲むのか。
・辛い大きな辛苦を味わわされた時、酒で救われた。→酒で救われることは、だれにでも共通するわけではない。
自分さえよければいい人たち
・ギャンブラーはいっさい人のために生きません。→自分さえよければよい人達である。→どう考えても最低な無駄な人である。←それでも惹かれるのはどうしてだろうかと思う。(滅びの美学か。)
企業の真の財産は社員である。
   ・会社選択→魅力的な経営者、それ以上に魅力のある社員がいる会社を選びなさい。
料理店と職人に一言申す。
・清潔、身綺麗は丁寧につながる→丁寧は仕事の基本→丁寧は人間の誠実さがこれをさせている→誠実さは生きる姿勢である。
哀しみにも終わりがあるのよ。

2016年8月3日水曜日

「浮雲」   林扶美子


2016年8月3日
by Etsuko.S

林芙美子は、明治37年12月31日 四国伊予出身の父と鹿児島県桜島出身の母との間に下関市で出生、八歳の時父と別れ、岡山県児島郡で母は行商人の男と再婚、尾道に七年暮らす。その間に通った女学校の図書室に4年間通い読書に耽る。
昭和4年自伝的手記のような「放浪記」刊行、昭和26年「めし」を朝日新聞連載中に死亡。   

戦時中ゆき子は、ベトナムのダラットへタイピストとして赴任、農林技師の富岡と会う。
そこは南国の楽園のようなところで、本国では必死の戦争が続く中、二人はやがて恋に落ちる。一見皮肉屋のようにみえる富岡だが、内地で孤独な生活をしてきたゆき子には魅力的に思われ、妻帯者の富岡は帰国したら妻と別れてゆき子と一緒になることを約束した。
 敗戦後、富岡に遅れて帰国したゆき子は富岡の家を訪ねるが、彼は農林省をやめて妻とも別れておらず、家族を抱えてその日をかろうじて生きているような暮らしだった。ゆき子はそんな富岡にダラットでの生活や二人の関係を語るが、富岡にはすでにその情熱は無くなっていた。ゆき子は東京になんのあてもなく、すさんだ生活をしていく。……

戦後の荒廃した日本、仕事もなくすさんだ生活を強いられる日常、もはや恋愛どころかその日の生活にも追われる男女の姿。
富岡とゆき子の再会の場面の描写は、さまざまに揺れ動く二人の心情を、作者の実体験と筆の力をもって、読むものを惹きつける。
その後、会っては別れを繰り返し、富岡がゆき子を捨てるかと思いきや、ゆき子が富岡と決別する気になるなど、発展性のない関係が続き、そんな中、ゆき子の妊娠、伊香保への心中の旅、またそこでの富岡の浮気、そしてその浮気相手がその夫に殺害される事件などもあり、妻も病死、富岡は人生に絶望していた。
やがて、富岡は屋久島で営林署の仕事をみつけ、病妻も親の世話もなくなって身軽になった今、ゆき子との縁も切り、遠い屋久島で暮らすことを決意する。腐れ縁の伊庭の金を持ち逃げして、富岡の心を呼び戻そうとしていたゆき子は、身軽になった富岡と今度こそ結婚をと思ったが、富岡は応じない。ゆき子との古いきずなを切りたくとも切れないまま二人は屋久島へと向かう列車に乗る。鹿児島での船待ちの間にゆき子は発病、病身のまま屋久島に着く。ゆき子の看病をしながら富岡は二人の関係をさまざまに思い出す。ゆき子の死に顔をみながら、富岡はゆき子が一番自分に寄り添っていてくれていたような気がした。
富岡は浮雲のような己の姿を考えた。何時、何処かで消えるともなく消えていく浮雲を。

若い楽しい恋愛をした二人にとって、敗戦後の生活はやりきれないもので、男性は家族を抱え、女性は想い出にすがり、いつの世にもあるパターンではあるが、もともと孤独なゆき子は浮雲のような生活も苦とせず生きていく。想い出だけで発展性のない恋愛といつの間にか拠り所となっていた二人の心。二人きりの生活が実現するその時にゆき子は旅立っていく。
だらしなく、くっついたり離れたり、いかにも人間らしい姿、そんな人間の内面を女性だからこそ描き出せたこの作品。浮雲のように離れたりくっついたりしながら、やがては消えていく、時代はかわっても普遍的な人間の心情を描いた名作と、読み終えました。

by Eiji.K


文芸大作、日本の名作を読んだという感じがする内容である。少し文章表現が難しいところがあるが、幸田ゆき子のいかにも女性らしい感覚・視点が随所に出ており、男性側からでは書けない作者の力量だろうと思う。

一方、富岡についてはこのような優柔不断で退廃的なずる賢い人はいるだろうと思うが、腐れ縁のような関係を追い求めるゆき子は結局、家族、親しい友人がおらず、寂しさや孤独感から富岡を求めるのだろうと思う。

この小説の時代背景は敗戦によりすべてが大きく変動していた時であるが、戦争一直線の生活・思想・価値観が全く180度転換したときの日本人の虚脱感や喪失感についてはいろいろな小説や映画等で感覚としては理解していたが、生活に密着した日常生活の中でゆき子や富岡の言動がリアルに表現されていて改めて時代の変遷の激しさを経験した当時の日本人の困難さや大変さを知らされた。

自分たちの親世代は、この試練を皆、通ってきているはずであるが、直接そのことについて聞いたことはなかった。特に、戦前に勤めていた会社がなくなり、住んでいた住所も失われ親しかった人たちが周りにいなくなり自分の半生が全く変わった時、どのように対応してきたのだろうかと思う。

そのような時代だからこそ、仏印の恋愛を懐かしむゆき子と富岡の関係が続いたのだろうか。

ゆき子が死亡した屋久島には数年前に登山で行ったが、その時も一日中雨で財布の札まで濡れてしまうことがあったが、現在の屋久島は自然のままの貴重な場所として観光化しており、小説のような暗さや寂しさは感じられなかった。

この小説は1955年(昭和30年)に映画化され、高峰秀子と森雅之の主演でその年のベストワン映画となっている。高峰秀子のすばらしさが感じられる彼女の代表作品でもある。次のURLで見ることができる。

http://v.youku.com/v_show/id_XMjQ4MzQzNjIw.html
(中国語のCMの後に映画が始まる。)

2016年6月1日水曜日

「朝鮮と日本に生きる」  金時鐘

                                              28年6月1日(水)

by Eiji.K

◇ あとがきに「済州島4.3事件」等の年譜にあるものを参考にして書いたとあるが、88歳でこのような綿密な史実を述べることができること自体驚異である。

◇ 動乱等の混迷した歴史を正確に記述しようとすると事実の積み重ねが必要になるが、その分、第三者には非常に分かりにくい内容になってしまう。特に左翼(社会主義・共産主義の流れ)と右翼との抗争は日本の終戦後の混乱でさえ正確に把握することが厳しく、ベトナムや東欧での凄惨な抗争も未だに十分に整理されていない。

◇ 大国(米・ソ)が絡む韓国での済州島での冷戦にかかる軋轢を把握することは、まだ、相当の歴史的検討期間が必要とされるのではないかとも思うが、作者のような暴動を起こした側からの記述は貴重な証言になると思う。

◇ 済州島から日本への脱出は、島にいては殺戮の嵐の中で生きていけないことによるが、現時点で話題になっているISによる戦争状態からトルコ・ヨーロッパに脱出するしかないシリア難民は同じ状況になっているのだろうと思われる。

◇ 日本は植民地下で生きたことがないが、その実態は大変な困難さ・貧困・理不尽な扱い等が常に生じるし、更に、祖国から亡命して他国で生きていくという試練についても体験・経験しなければわからないことが沢山あると思う。

◇ 1945年の朝鮮の解放後の混乱期(ソ連とアメリカの冷戦構造、社会主義の思想闘争、金日成と李承晩等)から結局朝鮮戦争になるのだが、同じ時期の日本は復興のみに専任できた違いは何によるのだろうか。
   日本の幕末時期、帝国主義の列強国は日本人の教育水準の高さ、勤勉さ等から植民地にすることは無理であると考えたとの話もあるが、日本は、島国という地政学的な条件に恵まれていたことによるのだろう。

◇ 作者の在日の友人として梁石日が出てくるが、作者の詩集、梁石日の小説等日本人にとっての共通媒体があることが彼らの想いを知ってもらうことに有効であったと思われる。                      

以上

2016年4月7日木曜日

「蕁麻(いらくさ)の家」   萩原葉子

              
                                             平成28年4月6日(水)
by Eiji.K

◇ 若い娘の家族間の葛藤、いじめ、父親の無理解などの世界は、当方にとって経験・体験がなく、まさに異次元の世界である。

◇ そのようなどろどろした感情を読み進めるのは共感しづらく読みにくかったが、「岡」が出てきて事件として展開する様は面白かった。

◇ 岡に自分から近づいていってしまった理由は、自分は値打ちのない居候娘なのだからと思い込、家族からも淫乱・醜女と言われ、食膳の差別待遇等、家庭環境が破滅の渕ににじり寄ろうとさせた。と言っているが、これは現代でも同じ問題であり、家族間の絆のようなものが大切であるとのことだろう。

◇ 天才詩人の娘として世間から見られていたが、現実の実態は全くかけ離れたものであったため、「これだけは、書かなくては死ねない。」と思うようになり、大変呻吟しながら書き進めていったとの「あとさき」の話はよく理解できる。

◇ 特に、「自分を書くことは、なんと難しいことか。書くからには自分の恥なしには作品は生まれない。」と吐露している点は共感できる。

◇ さらに、親類たちから「家の恥を晒した」との苦情が来たが、書き終わったあとは弱者と強者が入れ替わったのを覚えた。これで世の中の怖いものがなくなったのだと私は思った。とあり、苦しみ抜いて書いたことが報われた成果だったのだろうと思う。

◇ 萩原朔太郎は私の故郷前橋の数少ない偉人であり、前橋文学館は“萩原朔太郎記念・水と緑と詩のまち”との標題となっている。その朔太郎は娘の葉子から見ると、「私の思春期に勝の傍らで、どんな心の疵を受けて過ごしていたか、その疵がいかに深く暗いものであるか、同じ家の中に暮らしても、洋之助は一度も覗いては見ないのだった。」とあり、人間・父親としては失格者であったことを知ることができた。

2016年3月2日水曜日

「斜陽」  太宰治

             
                                             平成28年3月2日(水)
by Eiji.K

◇ 非常にネガティブな内容の小説であり、感想を述べることが難しい。

◇ 仕事を持ち、働くことで生活していくという必要性がなく、恵まれた境遇を享受できる人達の悩み・苦しみを理解しようとすることは難しい。
そのような境遇から抜け出し、自立しようとするならば共感は得られるが、単に落ちていくだけでは“かってにしたら”と思うしかない。

◇ ただし、滅びの美学というものには一種の魔力のようなものを感じるところはある。

◇ 主要な4人の登場人物評
① 母親は最後の貴族ということで年齢からみても仕方がなく、一定の理解は得られる。

② 長男直治の麻薬中毒や家のものを持ちだして切り売りする生活や、最後に自殺する理由などは理解し難い。

③ かず子の恋に恋するような非現実的な生き方も問題であり、シングルマザーとなる選択も異常である。

④ 上原のデカダンスな生活態度も共感できない。

◇ 以上のように異質な世界の理解し難い各々の苦悩を同調しようとする理由がわからない。したがって、このような小説が名作として受け継がれているのは当方の理解の仕方が悪いのだろうかと思ってしまう。

◇ または、何回か読み続ければ理解が深まるのだろうか。


以上

2016年2月3日水曜日

「満願」  米澤穂信

                                             平成28年2月3日(水)

by Eiji.K

〇夜警
 ◇ 暴発した拳銃の弾丸の発覚を恐れ、それを隠すために警官が発泡する細工をするという設定は非現実的である。いかに小心の警官でもそこまではしないのではと思ってしまう。
 ◇ 拳銃の取り締まりが厳重なのは知っていたが、弾丸まで管理が行き届いている日本の警察の緻密さは特に外国と比べると賞賛に値する。

◯ 死人宿
 ◇ 遺書を落とした宿客を探すという設定が面白い。
 ◇ 2年間も待って自殺しようとする人は、遺書を宿で書くのではなく予め書いておくほうが自然ではないかと思う。
 ◇ この後の二人の関係について“私の背中に手が置かれる。温かく、柔らかい手が。”とあり、復縁の感じが期待できてよい。

◯ 柘榴
 ◇ 両親が離婚することを知った思春期の少女が、父親を男として独占するため美しい母親や可愛い妹に罠をかけることや、近親相姦の匂いなど、大変恐ろしい短編である。
 ◇ 離婚した場合の子供に対する親権は、母親が養育する能力がない場合や母親が子供に虐待することがある場合以外は母親が親権を摂ることが今の日本の現状であるが、高校生がそれを理解し、上記の罠(虐待)をかけるという設定は不気味である。

◯ 万灯
 ◇ バングラディシュでのガス田開発の状況描写は非常にリアルで現実性を感じさせる。
 ◇ 最後の追い詰められた場面は違和感がある。森下の死体が発見されれば状況から裁かれることになるが、成田空港での検疫検査はあったものの、バングラディシュでコレラに罹患した、または、森下に会い、森下から罹患したが森下がどこに行ったかはわからないと突っぱねることで逃げとうせることは可能ではないかと思われる。

◯ 関守
 ◇ この場合も、プロットに少し無理がある。4年前に作られた「ぐるりマップ」の石仏がその後、首が折られていたことが判明しても、娘が高田太志を殺したことに結びつくとは考え過ぎである。また、事故遺体の検死で睡眠剤の検査は通常実施しているのではないか。
 ◇ しかしながら、この短編の最後になって、4件の事故が実は殺人であり、それを知った主人公も5件目の犠牲者になるという設定はおどろおどろしくて面白い。しかも、主人公の先輩はそのことを薄々感じていた設定もよい。

◯ 満願
 ◇ 借金のかたに家宝である禅画をとられることを防ぐために殺人をするという設定はやはり違和感を感じる。
 ◇ 禅画に飛び散った血と座布団に残された血の跡の軌道が一致していたという描写は警察の科学捜査(刺された肉体から飛び散る血の角度や量)では見破られるのではないかと思う。
 ◇ この小説全般に言えるが、状況描写・表現の巧みさは素晴らしく、力量がある作家だと思う。(苦学生の司法試験を受ける心理状況や畳屋の流行らない理由、夫婦の関係、妙子の矜持等)


以上


2016年1月6日水曜日

「空気」 と 「世間」   鴻上尚史

2016年1月6日

by Tsutomu.I

²  LINEなどに囚われている子どもたちを見て、何としてもこの一言「1日に何十通ものメールを交換する必要なんかないんだ」、「ネットの書き込みには逃げろ」を伝えたいために、自分達を取り巻いている「世間」と「空気」を分析した本だと理解した。

²  空気を読めの「空気」とは「世間」が流動化したもの
自分に関係のある世界=「世間」、本音、歴史的伝統的システム
自分に関係のない世界=「社会」、建前
の分類はよく理解でき、日本人のマナーの解釈は面白かった。

²  壊れてきた地域社会の再構築のヒントはないか?
支えは欲しいが、出かけて知り合いに会うことが少ない都会の解放感、自由に慣れているので、村八分のある世間には戻れない。ならばどうするか?

²  地域共同体から地域社会へ
日本では「世間」は一神教の代替として機能することで人を支えてきたが、壊れてきたので、「世間」を頼らないで、ほんの少し強い「個人」になって社会で生きよう。
同一性を求める「世間」ではなく、多様性を認める地域社会をつくろう。そして、複数の共同体にゆるやかに所属するのが現実的な解になる。

²  お笑いにも使われ、気楽に口にする「空気を読め」の影響が子どもたちに拡大することの危うさを感じた。「空気を読む」とは多数派に迎合することにつながり、第2次世界大戦は、ヨーロッパでも日本でも空気に振り回された結果起こったものと理解することができ、この危険性は今も変わらず存在していると感じている。自分の息子は「空気を読めない」のか、「空気を読まない」のか区別がつかないが、それでも生きられる個人の強さと多様性のある社会(diversity)を育てたい。

²  同一性を信じるより多様性を喜ぶ社会になって欲しいとの願望が作者にある
人は支えてくれるものとして「世間」=古き良き和の日本 を求めるのだが、それはもう壊れて元には戻らない。何故なら、世間からはみ出す、快適さや自由を知ってしまったからで、苦しくても世間原理主義者には戻らない覚悟がある。

²  今でも「個の強さ」より「世間」に依存することが少なくない日本では、格差社会がひどくならないようにする知恵が求められていると感じた。


by Eiji.K

書かれている文章表現は平易で分かりやすいのだが、微妙な差異や違いを指していることが多く、ストレートに入ってこない感じがある。あとがきに中学生・高校生に読んでもらいたいとあるが、彼らに正確に内容を理解してもらうことは無理ではないかと思う。頭が良すぎる人の文章である。内容を理解するには2度読みが必要であった。

◇ 世の中の出来事・事象を「世間」という切り口で、その歴史や現状をみるという視点は初めてのことであったので新鮮に感じた。また、その視点からの分析は鋭く、「目から鱗が落ちる」と感じる部分が多かった。
 世間=自分に関係ある世界  社会=自分に関係ない世界

◇ 世間の5ルール
◯ 贈与・互酬の関係
  ・強盗の理由は借金を返すため。
  ・バレンタインの義理チョコ(会社という世間に認められるため。)
  ・訪問時の手土産
  ・中元、歳暮
◯ 長幼の序
  ・先輩、後輩の関係
 ◯ 共通の時間意識(所与性)
  ・先日は有難うございました。今後ともよろしくお願いします。
  ・親子心中
  ・会社残業、飲み会
 ◯ 差別的で排他的
  ・部落差別
  ・クラス全員が無視するいじめ
 ◯ 神秘性
  ・しきたり、伝統、儀式

◇ 西洋における世間
 キリスト教の告解行為等により世間が否定され、個人が生まれた。(12世紀以前には世間が存在していた。)欧米人は1000年前に世間がなくなり全ての人が社会の人となったので社交術が身についている。(レジでの頬笑み等)
  彼らにとって神は絶対であるが、神以外は全てを相対化できる。(ディベート)

◇ 世間がゆるやかに崩れてきた理由は都市化と経済的・精神的グローバル化である。
 ・村落共同体は経済的に生き延びるための人間の知恵であった。(集団の農作業等)
  ☆農村では構成員の嫁取り、婿取りは未来の労働力確保として大切な経済行為であった。
 ・地域共同体社会は経済的に濃密に繋がる必要がなくなった。
  ☆地域共同体社会になってもその記憶が残っていた。
 ・地域共同体社会が崩れても「会社」が世間を支えていた。
 ・会社=終身雇用・年功序列が崩壊し世間が崩れ始めた。
 ・理想の父親像をマスコミの発達で子供たちは知ってしまった。
  (親、教師等の権威は失われていった。)
 ◯ 個人であることの明快さ、世間のルールを破ることの快適さを知ってしまった現在では、後には戻れなくなっている。

◇ アメリカは猛烈な格差社会
  ・日本とは比べられないほどの厳しい格差社会を生き延びているアメリカ人は、自分を支えてくれる神がいるから可能なのである。宗教がセーフティーネットとなっている。

◇ 世間はセーフティーネットの役割があり、制約や規制があっても守るべきもの、従うもの、大切にするものとして存在してきた。その世間が崩れてきたのでその一部である空気で支えて欲しいと思うようになった。→共同体の匂い→常に多数派の意見を気にし多数派の決断に従う。
  家族にセーフティーネットを頼る人もいる。→振り込め詐欺の悪用

◇ 人は不安になった時、原理原則に戻る。→古き良き和の日本(世間原理主義者)→共通の仮想敵を攻撃することが必要になる。

◇ 世間が崩れていく中では今後は社会に出て行くことが必要。→複数の共同体にゆるやかに所属すること。

◇ 大人とは世間と社会の振り子を積極的に楽しみながら生きていく人である。

◇ 自分にとって、定年後の生活が居心地がよいと感じるのは会社という世間から離脱した結果なのだということが腑に落ちた。また、現在、複数の共同体に所属していることも心地よさの理由なのだということも理解できた。


以上