2015年12月2日水曜日

「あかね空」   山本一力

2015年12月2日

by Etsuko.S

京都で修行した豆腐職人永吉は、銀九百匁(十五両)を元手に、江戸の深川で豆腐作りをすることを決意する。
この物語はここから始まるが、単に豆腐職人の苦労だけではなく、市井の家族の二代に続くあり方を、夫婦・親子・兄弟妹・嫁など人物の性格を的確に描写し、物語の起承転結を起伏に富んだストーリーで、読み物としての面白さを出している。

富岡八幡宮そばという設定は、産まれた時から八幡様にお参りする習わしだったであろう。それが、ちょっとしたアクシデントから、一途な性格のおふみを変えてしまい、長男栄太郎を身勝手な若者にしてしまう下りは、現代にも通じることで、夫婦・親子がひとつ屋根の下で働く豆腐屋であるために、ますますこじれていく。

しかし、長男栄太郎のどうしようもないだらし無さも、弟悟郎には優しい一面をもった兄であり、悟郎の嫁すみに冷たく当たる姑おふみも、内心では孫のことを思っていたという描写、また子供達が、父も母も亡くなった後とはいえ、若い時の仲睦まじい二人のことを知ることができたのは、小説の中とはいえ読者として救われるものがある。

この京や家族の周りの人物設定は大変面白く、江戸の時代ならではの仁義のようなものがあり、相州屋夫婦、江戸屋女将秀弥、棒手振の嘉次郎、因縁の人物傳蔵や鳶頭の政五郎は実に格好いい。また平田屋の庄六の小物ぶりもその姿が目に見えるようだ。

母親の死により、また平田屋の詐欺まがいの行為の挙句、傳蔵の台詞「堅気衆がおれたちに勝てるたったひとつの道は、身内が固まることよ。壊れるときは、かならず内側から崩れるもんだ。身内のなかが脆けりゃあ、ひとたまりもねえぜ。」は、この家族を新しく再生させる言葉だった。

文庫本のあとがきに文芸評論家縄田一男氏が、作家山本一力氏の人物を書いているが、その生き方はかなり破天荒だったようだ。
家族がひとつになる「家族力」というものを、作者が経験したさまざまのことを踏まえ、江戸時代の市井の一家族になぞらえて「あかね空」を書いたのだろうか。
現代の誰でもが持っているであろう家族の悩みと、その対処方を描いて面白い読み物になったのではないか。                         
 

by Eiji.K

◇ この小説は一週間で一気に読めた。筋の展開が早く、文章もしっかりしており、読み応えがあった。直木賞受賞作品としてふさわしい内容であり、大変面白く読めた。

◇ 落語に出てくる“はっさん、くまさん、ご隠居”の世界や時代劇に出てくる長屋の様子がリアルに目に浮かぶ身近なものとして感じられるのは小説としての表現力が優れていることによるのだろう。

◇ 江戸時代の町民長屋はお互いに助け合わなくては生きていけない世界であり、周りの住民や行商の人達との繋がりが緊密であったことがよくわかる。このような庶民生活は昭和30年代以降の現代で失われてしまった。

◇ 自助・共助・公助という言葉があるが、共助は日本人の自然環境と長い歴史の中で培われた優れた特質であり、今日でも自治会・町内会という形態で継続している。しかしながら、最近のそれらの加入率は落ちており、個人単位の繋がりに変わってきているのは経済的に個人が自立していけるようになったことによるのだろうか。

◇ おふみの栄太郎への溺愛は異常である。栄太郎が幼いとき死にかけた怪我について富岡八幡宮に願掛けしたことと、悟郎の誕生と父親の事故、おきみの誕生と母親の事故等の罰当たり意識により悟郎とおきみに辛く当たっっているが、それだけ庶民の精神的な支えとなっていた八幡様などの身近な宗教に対する思い入れが大きいことがわかるが、この感覚も現代の日本人は失っている。

◇ 江戸時代の経済活動の基本は家族であり、家族全員で作業分担し完結させる。現代では製造する工業製品とスーパー等で売られる商品は一貫性が感じられず、効率性が最大限追求された商品にはぬくもりのようなものは感じにくい。

◇ 傳蔵は相州屋のさらわれた息子であることを本人が知っているのかどうかは不明であるが、相手を見極めるときに人を使って情報を集め、行動するという現代的な手法を持っているなどアウトローの凄さと厳しさが感じられ魅力的な人物である。

◇ 相州屋の夫婦はさらわれた息子が生きていれば永吉のようになっていただろうことを思って、永代寺の商いを永吉にわからないように譲るくだりは人情話であるが、江戸時代ではよくある話のように思えてよかった所である。

◇ 解説で山本一力は3度の結婚と2億円の借金をしたと書かれている。この小説の人間関係の複雑さや家族同士のいろいろな齟齬、感情の機微等についてはそのような壮絶であると思われる実体験を持っているから書けるのかと思う。


2015年11月4日水曜日

「横道世之介」   吉田修一

平成27年11月4日(水)
by Eiji.K

◇ 初めの部分は一昔前の大学生の青春謳歌の話しであり、少し前に同じような時代を経験した者としては共感する部分もあるが、柴田錬三郎賞の対象や本屋大賞第3位となるところは何なのか理解できなかった。

◇ 後半になって、世之介が人助けの事故で亡くなったことが出てきて日常の楽しかった出来事は一瞬の過去になり、かけがえの無い時間になっていくことがわかり、その対比がこの小説の良さなのかもしれない。しかしながら、だからといって普通の大学生の生活を美化する事にはならない。

◇ 平和な学生生活だけでなく、少しヒリヒリした部分がないと読み応えがなく感じられる。

◇ 恋人であった祥子が世之介の故郷である長崎の海岸でフィリピンからの難民に遭遇し、そのことの影響であると思われるが、卒業後の仕事として国連職員になり世界を飛び回っていること、及び世之介が報道カメラマンとして成功していたことが出てきて、救いとなっている。

◇ ただし、祥子にとってそれだけインパクトがあったと思われる世之介との関係が後年、ほとんど忘れられているような設定は少し不満である。

◇ 倉持と阿久津唯に子供ができ、子育てのために大学を中退し、社会人として生活を始めるが、後年の場面で生活に疲れた部分が出てくるが、若気の至りの代償が大きかったことは現実的なリアルさがあってよかった。

◇ 良かった語句
 ・アパートの隣人の京子に「上京してきた頃より隙がなくなってきた。」と言われている。→大人になることは隙だらけ部分を埋めていくことでもある。
 ・自分は誰かを傷つけたことがあるかと自問するシーン
  →誰かを傷つけたことがないんじゃなくて、傷つけるほど誰かに近づいたことがないというフレーズはよかった。

以上

2015年10月7日水曜日

「虎屋 和菓子と歩んだ五百年」    黒川 光博

平成27107()
by Eiji.K


◇ 我々が親類・友人訪問、初めての面会等に菓子類を持参することは、今でも継続されている日本の伝統文化であるが、外国でも国によっては同じような習慣があるのだろうか。なお、最近の持参菓子類はケーキ等の洋菓子の場合もあるが、格式のある場合には和菓子を持参している。

◇ このような習慣は、日本文化の基礎が始まった室町時代から始まったといわれているが、貴族や大名から始まったものを庶民が取り入れたのか、その逆で庶民が実施していたものを貴族や大名が広めたのか興味のある所である。

◇ 慶弔時の引き出物に菓子類を使用することは今でも継続実施されているが、現代では経済的に裕福になったせいか、菓子の単価は低いのでもう少し高価な物品に変わっていると思われる。(結婚式の折り詰め、葬儀での葬式饅頭→お茶やタオルセット等)

◇ 虎屋のイメージは高級羊羹店である。サラリーマン時代に相手先へのおみやげとして15000円程度のものを利用したことが数回ある。

◇ 赤坂店は近くだったので知っていたが、羊羹以外に本書に出てくる数千種類もの和菓子があり、季節モノで一定時期しかないものなど歴史的な伝統菓子があることを初めて知った。

◇ 和菓子など数百年の歴史があるものは、伝聞・伝承として人から人へと伝わるものが多く、正確な文献が残されていないものが多いと思われるが、相手先が皇室等であったことから、虎屋には文献として残され保存されてきたことは文化の保持として貴重である。

◇ 虎屋の江戸時代の「掟書」が紹介されているが、商人としての心構え・立ち居振る舞いが書かれており、また、奉公人に◯◯の土産を持たせた等使用人に対する労務管理・人作りが昔から実施されていた。これらの社風が、虎屋を長く存続させている理由だろうと思われる。

以上

2015年9月2日水曜日

「人間ぎらい人恋し」     時実新子


                                          2015年9月2日

by Eiji.K

◇ 女性が書いた随筆で楽しく、かつ面白く読めたのは高峰秀子の旅行記等の随筆以来である。

◇ 特に、ものの見方、とらえどころ、視点が男も含めた一般論でなく、女・女性の感性で見ているところが新鮮である。

◇ 全体のトーンに面白さ・愉快さが感じられるのは、川柳作家であるのでそのような表現ができるのか、川柳という世界がそのような思考方法にしてくれるのか、「鶏と卵」の関係なのだろうと思う。

◇ あけっぴろげな語り口、特に性について女性側からの記述は珍しく、年老いても艶かしさを感じる。

◇ 自分の子供たちに対する記述も、長男は中庸を目指し、長女は母親に反発するさまを的確に言っており、男親側ではそのようなことはむしろ言わないことが多いのが一般的であり、感心させられる。

◇ 良かったフレーズ・表現
 ・一生懸命はまわりの人も疲れさせる。
  →川柳の極意のような気がする。

 ・年中「病気ヤーイ」と探している人を私はたくさん知っている。
  “足腰を鍛え鍛えてガンになり”

 ・人は死ぬとき醜くなる。美しい女性ほどその落差ははげしい。
  “死ぬるとき見ている人を敵とせよ”

 ・親と子は声が似る。男性で自分の子かどうか認知に迷われる向きは、ややこしい血液型鑑定などよりも子どもが成人するのを待たれたらどうか。
  →当方も声が父親と間違われたことが何回もあった。

 ・女と女、そのかなしみは母娘といえども分かちあえないものなのだ。
  “子を生みしことは幻天高し”
  

2015年7月2日木曜日

「64(ロクヨン)」  横山秀夫

平成27年7月3日(水)
by Eiji.K

◇ 2012年「週刊文春ミステリーベスト10」及び2013年「このミステリーがすごい!」で第1位になっており、読み応えのある小説であった。

◇ 上下2冊の長編小説なので読書会としては2ヶ月間が必要かなと思ったが、当方は一気読みで、1週間で読んでしまった。最近一気読みしたのは久しぶりである。それほど内容が濃く、展開が凄まじく変わりすぎるきらいがあるが、この作者のストーリーテラーは素晴らしく、大変面白く読めた。

◇ 作者は「クライマーズ・ハイ」で日航機墜落の地方新聞社の内幕を描いたが、今回は警察の広報官という立場である。いずれも現場経験をしたものでないと描けない臨場感があり、この作者が地方紙(上毛新聞)の記者であった経験が十分に生かされている。

◇ 14年前の事件であり、犯人として落とせるのかどうかや三上の娘(あゆみ)の今後の展開など、「64」の続編も十分小説として可能なのではと思われたが、
 ⇒NHKのテレビで「64」が放映されたが、上述のことが完結されていた。
  ・翔子ちゃん事件の犯人が自供したとの新聞報道記事がテレビの最後に出ていた。
  ・三上家に娘のあゆみのものと思われる電話がかかってきたシーンが一番最後に出てきて、期待を抱かせる結末となっていた。
 ⇒映画化された時、上述のことをどう表現するのか楽しみである。

◇ この本の読ませるポイントは警察組織内の諸々の軋轢・パワーゲームの実態とそれへの対処の仕方の個々の判断の見事さである。すなわち、現場部門(刑事部)と管理部門(警務部・広報室)のすさまじい対立、広報室と記者クラブ各社のせめぎ合い、広報機能のあり方への齟齬(役所と民間)、キャリア(赤間部長・本庁)とノンキャリアの力学関係、同期入社の出世競争や昇進・人事異動への不満(二渡と三上)、未解決事件(64)への思い入れの軽重など様々なテーマとなるものが縦横に交錯・重複し、作者の言う化学反応が読み応えとなっていると思う。

◇ 上記の軋轢・パワーゲームは、社会人として何らかの組織に属していれば程度の差はあるが、同様に思い悩み、対処してきているのが現代のサラリーマンの世界である。

◇ 主人公の三上は、仕事を通して上記の重厚な世界にいるだけでなく、別の課題として家庭での妻や娘の問題があるわけで、このような状態がずっと継続していけば必ず何らかの病気になってしまうのではないかと思われる。

  当方としては、定年を境にサラリーマンの世界から離れることができたことはなににも代え難い安寧・安楽を覚える。



2015年6月4日木曜日

「世界から猫が消えたなら」   川村元気

                                                   2015年6月3日

by T,I

あらすじ
余命1週間となった人間は何をするのか?
ネコと暮らす郵便配達員の僕が、余命1週間と告げられ絶望の中、自分に似た容姿の悪魔が持ちかけた取引「この世から何かを消せば、1日命が伸びる」に応じて、悩みながら何かを消していくのだが、最後に消せなくなってしまう。

1. 余命を宣告された人は何をしようとするのか?
2. 自分にとって世の中から消してもいいモノとは何か?

を自分ならどうすると考えながら読むと面白い本である。

月曜日:「何かを得るためには、何かを失わなくてはならない」・・・この世界の原則
    電話を消す 最後の電話を誰にする?

火曜日:消すとは人が気づかなくなること「ドラえもんの石ころぼうし」・・・常に起きている
    携帯電話で失ったものは、想いを伝えられないもどかしい時間

水曜日:映画を消すときに見る最後の映画は「ライムライト」、だが実際は白い画面と空白の時間
    人生の回想
    イタリア映画の「道」・・・ほとんどの大切なことは、失われた後に気付くものよと母

木曜日:しゃべる猫、時計を消す
    人間は不自由さと引き換えに決まりごとがあるという安心感を得た。
    目の前のことの追われれば追われるほど、本当に大切なことをする時間が失われていく

金曜日:猫を消す
    お母さんが亡くなる時の回想
    家族は「ある」ものでなく、「する」ものだった
    お母さんからの手紙「あなたの素敵なところ」を忘れずに生きる
    「人間が猫を飼っているわけじゃなくて、猫が人間のそばにいてくれてるだけなのよ

土曜日:僕を消す。猫が消せなくて、死への準備をする。
    父との記憶、 どう生きるかに意味がある。

日曜日:父への手紙を郵便ポストに入れずに、手渡しに湾の反対側の父の町に行く。

 世の中から消しても良いものを考えてみる契機になる、話だと思う。
便利な道具や仕組みがあることで、大切なことができなくなっている現代人へのメッセージ。
世の中の進歩とともに失われていくもの、なくてもいいモノが増え続けていることへの警鐘と取れる。
 自分が必要としないモノを消したいとの衝動は常にある。「ゲーム、LINE、24時間営業・・・」
新しく生まれてくるものは、なくても生きてけるもの、便利さ、快適さを追求するあまり、失うものの大きさに気が付いていないのが現代かもしれない。変化に適応できない人が増え続けているようにも感じられる。

 子どもの頃の生活になかったもの、「テレビ、洗濯機、冷蔵庫、掃除機、エアコン、電話、車、パソコン、コンビニ、宅急便、インターネット、・・・」なくても我慢できそうなものと難しいものが混在している。

 便利、快適と引き換えに失いそうなもの、失ってみないとわからないもの、「地球温暖化、原発汚染、化学物質の汚染、社会のつながり、生活の安心、安全・・・」

 今こそ、モノやサービスを選択して生活に取り入れる知恵が求められていて、日本人が求めた便利、正確、快適を求めすぎないことが、ヨーロッパの知恵ではないかと感じられる。
価値観や人生哲学が求められる社会になると思うので、子どもたちの教育が重要と感じている。

生活の中から、自分が消していくものは?
1. スマホ(携帯電話)
2. ? (あると思うが、思いつかない)
3. ビデオ
4. 24時間営業

日本社会から消していくモノのは?
1. リニア新幹線
2. 原発
3. モール

by Eiji.K

この本は、お伽話や寓話の世界の話である。したがって、コメントをしにくい内容である。

 主人公の“僕”の余命がわずかという設定は、安易のような気がするし、死への恐れ・恐怖があまり切実に感じられないのも気になる。

◇ 作者の言いたいテーマとして、日常的に当たり前と思っている様々な物事、飼っている猫のことや家族の愛情等は、喪失することで初めて気づくということから、今から再認識し、大切にしていかなくてはいけないということであると思うが、見方を変えればごく当たり前なテーマでもある。

◇ 個々の文章表現には、珠玉の文章が沢山あり、この本の品位と読後感の爽やかさが感じられ、ベストセラーとなっている理由だろうと思う。

 ・「何かを得るためには、何かを失わなくてはね」
 ・僕らは、電話ができることで、すぐつながる便利さを手に入れたが、それと引き換えに相手のことを考えたり想像したりする時間を失っていった。電話が僕らから、想いをためる時間を奪い、蒸発させていったのだ。
 ・恋がそうであるように、終わりがあるからこそ、生きることが輝いて見えるのだろう。
 ・すぐに伝えられないもどかしい時間こそが、相手のことを思っている時間そのものなのだ。
 ・神様に問われていたのは、世界から消える物の価値ではなく、僕の人間としての価値なのだ。
 ・自分の生きている世界を一周まわってみて、あらためて見る世界はたとえ退屈な日常であったとしても、十二分に美しいということに気づいたんです。

◇ この本が映画化され、主人公が佐藤建、元恋人が宮崎あおいという配役は両者の雰囲気が合っており、適役であると思う。





2015年4月1日水曜日

「蛍川・泥の河」  宮本輝

平成27年4月1日(水)

by Kumiko.O


【蛍川】
竜夫という子供の目線で作品ができているが、竜夫の母の千代に魅力を感じた。作品の中に、具体的な千代の容姿に関する描写がない。その分、千代という人物への想像力をかき立てられる。

具体的には、
千代は金沢の「田村」という料亭の女主人の誘いで勤めるようになった。芸者でも仲居でもなく、女主人の補佐として帳場に座ったり、芸者の手配をするのが仕事だったが、千代は売れっ子の芸者よりも人気があった。千代が黙って傍らに座っていればいい、もう芸者を呼ぶことはないと笑い合う客に囲まれて・・・。(p105)

子供である竜夫は、大変良い子に描かれている。思春期の心のうちが良く描かれていると感じた。特に惹かれたのは、
重竜の指はしっかり竜夫のベルトを握りしめて離さなかった。重竜は泣いていた。子供のように泣きながら竜夫を引き寄せて、その腹に自分の顔をこすりつけた。竜夫は恐ろしかった。自分にしがみつき、身を捩(よじ)って泣いている父から、一時も早く逃げていきたかった。

重竜は、魅力のある男性だったと思われる。
・・・その純毛の外套は、誰もがしばらく見つめるほど鮮やかな鶯色だったが、精悍(せいかん)な体と切れ長の鋭い目には不思議に良く似合った。

何も無いことの幸せの描写に共感した
このまま病院に行かず・・・・閑散とした映画館のなかで、眼前の物語に心をこらしながらスルメをしがんだりしていることが、なぜかとてもしあわせのことであるように思えて仕方がなかった。

【泥の川】

作品には色彩があると思う。前回の中上健二の小説がどろどろした血のような赤を感じた。それは彼の「路地」出身という出自(しゅつじ)の血が大きく影響していると思う。

泥の川の作品の色はヘドロのような土色なのかと思って作品を読んでみたが、この作品は色より匂いが強烈に印象に残った。その匂いは信雄少年の目を通して描かれている、むせ返る白粉の匂いだった。この作品もやはり子供(信雄)の目線から描かれているが、私が魅力を感じたのは舟で暮らす親子の母親に惹かれていく少年のである。
部屋の中にそこはかとなく漂っている、この不思議な匂いは、霧状の汗とともに母親の体から忍び出る疲れたそれでいてなまめいた女の匂いに違いなかった。そして信雄は自分でも気づかぬまま、その匂いに潜んでいる疼くような何かに、どっぷりとむせかえっていた。信雄は落ち着かなかった。と同時に、いつまでもこの母親の傍らに座っていたかった。


その他
どちらの作品が好きかと問われれば、最初「泥の川」を読んだ時これが良いと思い、次に「蛍川」を読んだらこちらも良いと思った。それぞれの世界観があり興味深かった。


備 考


 「泥の河」文学碑は、平成23年6月に建立された、比較的新しい碑。
周囲には何もないちょっとさみしげな一角にポツンとあるのですが、この辺りは、泥の河の作者、宮本輝が幼いころ住んで、泥の河の舞台となった場所でもあるということ。ちなみに、泥の河は太宰治賞を受賞した作品。昭和30年の大阪。社会の底辺で暮らす人々を描いた。
(ネット 街歩き「姫路から心斎橋」 http://4travel.jp/travelogue/10938617 より)

以上




by Eiji.K

 泥の河 
◇ 戦後すぐの大阪の下町の日常描写が目に浮かぶようであり、この作者の表現力の確かさ
 が素晴らしい。特に、母親が廓舟という姉弟の悲しい境遇が上手く描かれている。(美し
 い姉が無口で働き者であることや弟のいじらしさと狂気など)

◇ この小説の映画化されたものを見ているが、印象に残っているのは晋平役の田村高廣の
 手品シーンと信雄と加賀まりことの出会いシーンである。カラー画面でなく、白黒画面で
 あったことが時代背景を暗示していて相応しく思えた。映画としては名作であったと思う。
 なお、大きな鯉は出ていなかったのではないか。

◇ 「馬のおっちゃん」と「沙蚕取りの老人」が亡くなったことが出てくるが、この当時は、
 身近に人の死はどこにでもあったことが書かれている。人間の身近な死は生活する上で人
 との距離を近づけ、人間関係が密にならざるを得ないことになっていたのではないかと思
 う。現在は、医療技術の発展もあり、人の死を遠避け、隠すことが一般的であるが、人と
 人との関係を希薄化させていることになっている面もある。

 蛍川 
◇ 純文学という言葉がある。最近の小説には廃れてしまった感があるが、宮本輝の初期の
 作品は、自然描写や庶民の貧さや哀愁表現、感情の機微などで人の暖かさ、懐かしさ、郷
 愁のようなものを感じる。それ故かこの作者の作品に一時没頭した時期があるが、最近の
 作品はその輝きが亡くなっているように思われる。

◇ 蛍川は映画化されていたが、見ていない。あまり評判にならなかったからだろうか。

◇ 最近、蛍の飼育に携わっていることにもよると思うが、小説に出てくる蛍はゲンジボタ
 ルかヘイケホタルなのかとの興味がわく。
  
◇ 作中で千代が通行人の着ている着物の表現について”何度も水をくぐったものであるこ
 とはひと目で分かった”と書いてあるが、これは着物が色あせているとのことか。


以上

2015年3月7日土曜日

「岬」   中上健次


by Takako.Y

 哀調を帯びた短いセンテンスが、秋季(彼)を取り巻く様々な人々をまたその関係性を鮮やかに描き出している。ときに地形や自然もありありと描写される。
 「土方は彼の性に合っている。・・・・・土には、人間の心のように綾というものがない。彼は土方が好きだった」と二十四歳の秋幸は何も考えずにいられる土方仕事に打ち込む。

 血縁、とりわけ自分の出生への嫌悪感が作品全体に漂っている。実の父である「あの男」への憎悪は激しい。あくどいやり方で他人の山や土地を奪って財産を増やしたと噂される「あの男」。秋幸の母を妊娠させたときに他の二人の女性をも妊娠させた。多くの男たちに憎まれ、たくさんの女たちを泣かせた「あの男」。

 その男からいつも見られている。子供の頃からその視線を感じてきた。自分の顔は「あの男」にそっくりで「世の中で一番みにくくて、不細工で、邪悪なものがいっぱいある顔だ」と思う秋幸は「虫唾が走る。反吐が出る」「きれいさっぱりなかったこととして、消してしまいたい」と苦悩する。
  「あの男」と同じようになりたくないから自身の欲望も余計なものとしてそぎ落としたいと思う。だから土方仕事に没頭しているときが好きなのだ。
 身近で起こった殺人事件や父親の違う姉の精神の病気などの本当の理由は「山と川と海に囲まれ、目に蒸されたこの土地の地理そのものによる」と秋幸は思う。

 (被差別部落出身の中上は「部落」のことを「路地」と表現する)被差別部落出身ということに対する嫌悪も「土地の地理」に含まれているのだろう。
 血の繋がりに縛られているという閉塞感から逃れたくて、同じ父親の血を引く妹かもしれない女と男女の関係を結んだ。それまで封印していた欲望を開放することによって、「あの男」そのもの、母も姉も、(自殺した)兄もすべて自分の血につながるものを凌辱しようと。
 迫力あるクライマックスては、妹を犯したと確信することによって秋幸は何者かから解放され、新しい一歩を踏み出す。
 物語はさらに展開されて「枯れ木灘」へ。

                    
by Eiji.K

◇ 紀州弁の方言や肉親や親戚関係の複雑さ、会話している主が誰なのかわかりづらいこと
 があるが、読み応えがあり、大変深い心情吐露が表現されていて久しぶりに読み応えのあ
 る読後感である。

◇ 黄金比の朝
  昭和40年に浪人生として初めて群馬県から東京へ出て、予備校に通っていた頃を思い
 出す。大学に入ってからも主人公の兄のような過激家が周りに多く、ノンポリの学生にと
 って刺激的であった。また、当時は、世の中の動きが激しく、現在のようにある程度確立
 され、落ち着いている時代とは著しく違う時代であったことを感じる。

◇ 火宅
  一度読んだだけでは登場人物の人間関係がよくわからない。過去と現在も曖昧な感じが
 する。書かれているような境遇・社会環境が一昔前にはあったことは理解できるが、現代 
 では想像することが難しい。
  漫画「巨人の星」で父親がちゃぶ台をひっくり返す場面があるが、そのような場面が日
 常的になくなってきたのは世の中が豊かになり、どうにもならない感情の発露を発散させ
 る必要がなくなってきたのか、また、個人の権利意識が尊重され、家族を殴る、蹴るとい
 うような理不尽な行動は「虐待」と言われ、警察沙汰となる社会の監視の目があり、自制
 されるようになっているのか。

◇ 浄徳寺ツアー
  主人公の怒り・激しさ(自分の子供の出産に立ち会わない、ツアー参加の老人たちへ軽
 蔑、体育会系の左翼運動家への敵視、関口由紀子への暴力、白痴の子どもへの視線等)が
 どこから来るのか、どうしようとしているのかが不明であり、20代の感情が今後どうな
 っていくのか不安を抱かせる内容である。なお、浄徳寺門前町の温泉描写がリアルである。

◇ 岬
  火宅の続編である。現代の家族は核家族化が主流であり、小説に出てくるような両親が
 異なる異母兄弟の家族構成はあまり存在していないが、昭和のこの年代では実在していた
 のだと思う。経済的な貧しさにより寄り添って生きていくしかなかったのだろうが、現代
 は一定の生活水準の向上でこのような境遇はなくなっていると思う。
  彼・秋幸はそのような重い、どうしようもないしがらみを抱えた中で、自立していこう
 とする意欲が感じられ、共感を覚える。見方を変えれば、人間としての強さの核のような
 ものを持っていられるのではないかとも思う。

2015年2月8日日曜日

「新解さんの謎」   赤瀬川源平


2015年2月4日 
by Etsuko.S

三省堂刊行の「新明解国語辞典」第一版から第四版までの語釈について、辞書としてあるまじき、ユニークかつロマンチックな語釈をピックアップして、著者のそれに対する文章も面白い。
当読書会では、先に三浦しおん著の「舟を編む」を読んでおり、国語辞書を編纂するにあたり、膨大な時間と緻密で慎重な作業のありさまを理解してきただけに、この著作における「新明解国語辞典」での語釈には驚かされた。一人以上の編集者・監修者が存在すると思われるのに、このような記述が許されたのか興味深く読み進んだ。

「辞書は小説よりも奇なり」というべきか、三省堂の辞書制作にまつわる、ことばに人生を捧げた二人の人物を知ったのは、「新解さんの謎」を読んで、まさしくその謎に惹かれ調べていく過程だった。東大同期生の見坊豪紀と山田忠雄は二人で1943年「明解国語辞典」を作った。その後次第に己の理想を追求して別々の道を歩みはじめ、やがて二人は決別したという。そして、同じ出版社から全く性格の異なる二冊の国語辞書が生まれた。このことは、佐々木健一著「辞書になった男・ケンボー先生と山田先生」に書かれている。
見坊氏は「三省堂国語辞典」(1960)を、そして山田氏は「明解国語辞典」を基に「新明解国語辞典」(1972)を作り、その発行部数は辞書としては驚異的な累計約四千万部に及ぶという。両氏とも極めて独善的で殆どの語釈を自ら書き編纂した。

「無人島に一人流れ着いた時には辞書を持って行く」などという会話をよくしていたが、今、私の手もとにある辞書では暇つぶしにはなるが、笑える程ではない。もしもの時の為に「新明解国語辞典」第三版を早速入手した。
本著には掲載のない【嫉妬】は、「新明解国語辞典」第三版では次のようになっている。《【嫉妬】:自分より下であると思っていた者が自分よりも多くのものを持っていたことに気づいた時のむらむらとしたねたみの気持。》 実に人間らしい。
また、「かぞえ方」の項もあり、先に記載のあった「火炎瓶一本」で大笑いできたが、あばら屋・黒かび・どす・ナパーム弾・ピラニア・・笑うしかない。
友人の南伸坊のカットや写真の挿入もユーモアがあり、久々に笑える本に出会った。

このまま、楽しい語釈が掲載されていくと思いきや、【紙くず】に続く後半は「神がみの消息」という随筆形式になっており、前半の「新明解国語辞典」の語釈の面白さとそれを受けた作者の言葉が楽しく、一気に読み進めたのにここからは急につまらなくなる。この本が出された時から15年の歳月、紙に関しては目覚ましいい進化をしたこともある。ただ、余白について語った文章の三つ目「ゴッホは過労死だった」では、人生の余白というテーマで述べているが、人生を一冊の本に例えて本文・奥付・余白と考えてみることには興味を惹かれた。                      以 上

新明解国語辞典 第三版 1984年1月20日刊 
第25刷掲載の語句でちょっと面白いもの

清廉:心が清くて私欲が無いこと。(役人などが珍しく賄賂などによって動かされない時などに言う語)

政界:(不合理と金権が物を言う)政治家どもの社会。

官僚的:官僚一般に見られる、事に臨んでの好ましくない考え方や行動の傾向を持っている様子。(具体的には、形式主義や責任のがれなどの態度を指す)

部落:農家・漁家などが何軒かひとかたまりになっている所。(狭義では、不当に差別・迫害された一部の人達の部落を指す。この種の偏見は一日も早く除かれることが望ましい。)

公僕:(権力を行使するのではなく)国民に奉仕する者としての公務員の称。(ただし実情は、理想とは程遠い)

宿舎:①旅先などで泊まる旅館②公務員などに、名目だけの安い家賃で提供される住宅

必要悪:それ自体取り上げる時は悪とみなされるが、その社会(組織・当事者)の存続のためには必要な手段としておこなわれるもの。死刑、警官による極悪犯人の射殺、漁民によるイルカの大量撲殺、商社にとっての賄賂、自治体の財源としてのギャンブル公営など。

俗人:高遠な理想を持たず、すべての人を金持と貧乏人、知名な人とそうでない人に分け、自分はなんとかして前者になりたいと、そればかりを人生の目標にして暮らす(努力する)人。天下国家の問題、人生いかに生きるべきかといういことに関心が無く、人の噂や異性の話ばかりする人。高尚な趣味や芸術などに関心を持たない人。

口惜しい:自分の受けた挫折感・屈辱感などに対して、そのまま諦めることができず、どうにかしてもう一度りっぱにやり遂げてみたい(相手を見返してやりたい)という気持に駆られる様子だ。

取り巻く:②自分の将来にとって有利になりそうな人と始終接近して、きげんをとる。

世間知:「世間智」おとなとして世の中をうまく渡って行く上での判断と身の処し方。正直ばかりでは通用しないとか、世の中には裏があるとか、事を成功させるためには根回しや付け届けが必要であるとかの学校では教えてくれない種類の常識を指す。

「新解さんの謎」に取り上げられた語句

恋愛 合体 性交 馬鹿 かねがね 火炎 国賊 ごきぶり むっちり 家出 嬌羞
ぴたり ぶりぶり 以外 ぞっこん たら むっと 即ち たまゆら 腐れ ぬらぬら ぬるぬる 出来る ちょっかい 陰茎 勃起 女 包容 ヒステリー なまじ
浅知恵 あざとい のに 犀 箱 次に 次々 苦しい 話 ぬっと 足りる 合わせて そうそう 土台 いっそ 遅かれ早かれ ひょっと 悪念 きり じっと 手 沸々 火達磨 だって 泣かす 逃げる 新入り 肝硬変 お預け 田虫 ふと 弾ける 一人 時点 世の中 実社会 よもや 売文 ブックメーカー 救い難い 上
読書 勝義 一気 はえぬき にたり 尻 ねばねば よう 笑う 嬉しい こそこそ 凡人 大方 遠足 恐る恐る 手締め 臍 どっかと 動物園 然らば 紙くず

恋愛:特定の異性に特別の愛情を抱いて、二人だけで一緒にいたい、出来るなら合体したいという気持ちを持ちながら、それが常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。

凡人:自らを高める努力を怠ったり功名心を持ちあわせなかったりして、他にたいする影響力が皆無のまま一生を終える人。(マイホーム主義から脱することのできない大多数の庶民の意にも用いられる。)

実社会:実際の社会。(美化・様式化されたものとは違って複雑で、虚偽と欺瞞とが充満する、毎日が試練の連続であるといえる、きびしい社会を指す。)

勝義:(転義や比喩的用法でなく)その言葉の持つ本質的な意味・用法。

世の中:愛し合う人と憎しみ合う人、成功者と失意・不遇の人とが構造上同居し、常に矛盾に満ちながら、一方には持ちつ持たれつの関係にある世間。

読書:(研究調査のためや興味本位だはなく)教養のために書物を読むこと。(寝転がって読んだり、雑誌・週刊誌を読んだりすることは、勝義の読書には含まれない)

時点:・・・・・。1月9日の時点では、その事実は判明していなかった。

上:③・・・・・・。形の上では共著になっているが

一気:③・・・・・。従来の辞典ではどうしてもピッタリの訳語を見つけられなかった難解な語も、この辞典で一気に解決



by Eiji.K

◇ この本は、ジャンルに分類すると随筆である。随筆では著者の考え方、思想、感覚が直接的に反映される。特にこの本では連載物であるせいか、作者の捉えている対象範囲が非常に多岐に渡っており、捉える視点がユニークで あることに感心する。

◇ 赤瀬川原平の経歴をみると、前衛美術家、路上観察学会主催など面白そうなもの、ナンセンスなものに取り組んでは注目を集める(千円札裁判など)
 一方で、作家、脚本家分野では芥川賞受賞、日本アカデミー脚本賞受賞など資質の高さは確かであることがわかる。つまり、この作者は簡単に人物を捉 えることが難しく、ある一面より批評できる対象者ではない。

◇ この本の感想としては、あとがきの対談で述べられていることが非常に的を得ており分かりやすい表現となっている。
 ” 赤瀬川さんって、なんか存在自体が限りなく余白に近い人のような気がし ません?”
 ” 赤瀬川さんの中には、抜き身のギラギラした、日本刀みたいに鋭利なものがあるような気がするんです。それを真綿というか濡れ雑巾というかそういうもので包み込んでいるという感じがするのです。” ”その名刀で世の中を切ろうとするが、けっして高みからズバッと切り捨てない。それが赤瀬川の優しさ、品の良さに通じるんだと思います。”

◇ よかった箇所・気になった点
 ・当方の持っている新明解国語辞典は第二版で、この本に書かれている内容は出ていなかった。新解さんが自己主張するのは第三版以降ではないかと思われる。
 ・料亭の入口などに見かける盛り塩について、白であり、物族ではなく神族のおこないである、といっているが、中国から来た故事を踏まえたものであり、物族ではないかと思う。
 ・機能的に優れた道具というのは、それを使いこなせる人にとってはものすごく便利だけど、使いこなない人にとっては燃えないごみである。現代のIT機器は機能進化が進みすぎて燃えないごみになりつつあると思う。


2015年1月15日木曜日

「ボタニカル・ライフ - 植物生活」  いとうせいこう

平成27年1月14日(水)
by Eiji.K

◇ 現状での私の植物鑑賞・花を愛でる対象は、山登りをやっている関係からか、高山植物
 である。高山植物は一般に標高2000㍍程度から現れるが、殆んどは厳しい環境条件下(寒
 冷・強風・ガレ場等)で生息している。花の種類によっては、その山にしか存在しなく、
 見られる時期も限られているものが多い。したがって、それらはこちらから出かけること
 で初めて見ることができる花である。

◇ 鶴ヶ島市から近郊へ季節ごとに花(桜・芝桜・ツツジ・あじさい・牡丹・藤・曼珠沙華
 等)を見にゆくことも多いが、これも咲いている所へ出向く行為である。

◇ この本に出てくるベランダーの定義として、マンションやアパートなどで植物を鑑賞す
 る前提は、地面で植物を育てるのではなく、鉢の中で育てることが基本となる。地面と鉢
 の植物に対する環境差は大きい。地面では一度埋めれば枯れるまで植え替えをすることは
 稀であり、水やりも少ない。一方、鉢では頻繁に水やり・日当たりを考慮した移動等が必
 要になる。見方を変えれば植物の生殺与奪権のウエートがベランダーでは高いといえる。

◇ 上記は、花を愛でる方法として自然の中でみることと、加工した空間の中で見ることの
 違いで花を愛でることの行為は同じである。

◇ 我が家の窓際にも鉢植えがいくつかあるが、この作者のようにもっと愛情を持って観察
 し、こまめに世話をしなければいけないことを生殺与奪権を持っている者はその義務を果
 たさなければいけないことを知らされた。

◇ 良かった箇所
 ・アマリリスに対する表現:アマリリスは最高だ。こいつとなら結婚してもいい。
 ・レモンポスト:我が家のレモンポストもほっといたままで20年以上が経っている。
 ・盆栽:ベランダーと盆栽の違い
 ・サボテン:植物人間などという言葉は人間に対しても植物に対しても失礼だ。
 ・シクラメン:「シクラメンのかほり」との対比は秀逸である。
 ・春:植物はみんな春が来ていることを知っていたのだ。
 ・抽象的な他人の目:春の花の奇跡的な饗宴に対する感動は、ベランダー一人が見るだけ
  では存在の重みに吊り合わないので他人の人にも見てもらいたいという気持ちの表現
 ・ヤゴ:昆虫の生体に対する感動
 
以上


by Kumiko.O

ベランダーとはベランダに人化する英語の接尾辞“-er”を付けたもので、ベラダンにプランターや鉢を置き、そこで花や野菜を育てる人のことをいう。一軒家の庭で園芸(ガーデニング)をする人のことをガーデナーと呼ぶが、ベランダーはその対語にあたる。アパートやマンション、庭のない一軒家に住む人向けにベランダ・ガーデニングを提案する園芸ライフスタイルマガジン「PLANTED(プランテッド)」の編集長“いとうせいこう”による造語である。(日本語俗語辞書より)

これによれば、私は「ベランダー」である。現在、屋外に43鉢、室内に16鉢ある。
この本を読んで、なぜ著者は「ベランダー」になったのかを考えた。
その前に、自分のことを考えてみた。なぜ私は50鉢以上もの鉢やプランターの植物を育てているのか?

マンション住まいでは、どうしても緑が少ない。窓の外に目をやった時に緑に癒されたいと思ったから。対象に選ばれた植物は特に系統的に選んだものではない。私に癒しを与えてくれそうなもの。ゴールドクレスト、トネリコ、縞薄、蛍袋、食わず芋、君子欄、水仙、朝顔その他諸々。
選んだものに、愛情を感じているわけではない。相手が一方的に癒してくれればよい。
ここが、著者と私の違いのような気がする。著者は植物に関心があり、それはペットショップにいって、目が合ってしまった犬を購入するのと似ているような気がした。

植物と著者の間に、ペットに近い関係ができているように思われた。よく、コレクターと言う類の人がいて、「桜草」「十文字草」「海老根」「さつき」などを収集している人がいるが、その人たちは綺麗な花を咲かせること、珍しい品種を集めることに重点がおかれていたように思う。それと著者は違っている。
「・・・かよわい花を西日に当てて悠然と煙草などを吸っていることもある。植物からしてみれば、俺は愛の足りない人間にちがいない。しかし、それでも僕は十分必死なのだ。しおれた花には心をいため、表土を覆ったカビをみればガクゼンとする。その時、俺はかつてないほど俺以外の生命を愛しているのである。」愛していると言い切っている。私と著者の植物に対する感じ方と距離感を感じる点である。
特に著者の思い入れを感じた植物は「アマリリス」の章である。まるで滑らかな肌をもった女性に接するような著者の視線を感じた。

なぜ著者は「ベランダー」になったのかについては、推察の粋をでないが「人は何かを育てることが好きなのかもしれない。昔はやったタマゴッチも育てごっこだった。その場合、育てる対象が生きているものの方がより感情が入りやすいのかもしれない」と思ってみた。

この本を読んで良かったのは、自分の鉢植えの植物に対する接し方を見直すことができたことである。この本を読まなければ、「愛」などを思うこともなく水やりをしていた。これからは「おはよう」などと声でも掛けながら水をやってもようかと思った。

以 上